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2006-05-29

風呂敷あれこれ

祖父の小学生時代 1890年代

南京米の等分に混ざったお米を二十五銭ほど買って帰る途中、新堀の橋の際に出ていた煮込み屋で、豚の臓物の串刺しを味噌で煮た一銭四本の「牛煮込み」を買い、片手にお米の風呂敷、片手に煮込みを下げて帰る楽しさ。

真冬の夜など、両親がランプの下で懸命に仕事中、命じられ、買ってきた焼き芋の風呂敷を広げ、湯気の立つのを、親子で囲んで食べる美味さ。

女学校五年次の肩章づくり 1939年とその前後

五年次の白のネルの傷病服はなかなか仕上がらず、一学期でお終いでした。肩章づくりは(フェルトに階級章を縫い込む作業は)女学校のミシンが遅く、こちらも和裁の先生に指示され、神田に持ち帰り、母は足踏みの工業ミシンで三日に一度、風呂敷一包みを仕上げ女学校に持ち帰り、教室全員でアイロンをかけ陸軍へ納品、それを一年続けた結果、陸軍から女学校に感謝状が届いています

結婚式祝品寄贈芳名 1942年

祖父の遺品に「結婚式祝品寄贈芳名」と題した帳面が残っています。現金は五圓~二十圓がほとんどです。「米四升及びせんべい」のお祝いが印象的。

寄贈者には二見理千、杵屋佐次郎・六寿、花柳寿美輔、武藤などのお名前もあります。他には白木屋(日本橋)、芙蓉荘(湯河原の別荘兼旅館)、「隣組第○○群一同」が目につきました。お返しは五圓十圓の「国債」が圧倒的、次いで鰹節と風呂敷です。

婿養子の立場 1942年~45年

風呂敷包みより軽かったそうです、母が認識していた婿養子の立場は。娘の意向に関係なく主人の気持ち次第で、離縁されてしまったそうです。妊娠中の母は長男を連れ富士に疎開、祖父一家は菅野に疎開、父は真間から通勤していた戦争末期、祖父は祖母と父を呼び出し、婿への財産(戦後は紙屑同然)の譲渡を保証する証文を手渡しています。父への信頼が増した祖父が、養子の不安を除く配慮。

配属された部署 1968年、1971年

新卒の頃、配属された部署で最上位の上司が、風呂敷包みを抱え、私を伴い、通行人を威圧する看板の掛かった建物に入り、私なら十年出入りしても迷ってしまう部屋に直行、ドアを押し開け、挨拶を傍聴した記憶があります。参謀の性格は同じでしたが、配属された部署には三通りの仕事が雑居、内一つの仕事にこの折、私は失格したのだと思います。

クリスマスの季節-539-



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