日露戦争
試用初日は、草鞋の履き方を教えられ、鞄を抱えポストから郵便物を集める仕事で、両国郵便局の収集区六区を、一日五、六回、一回につき五十分、十七から二十五のポストをまわり、遅れると厳罰だった。
一月ほどで三等集配人を命じられ、日給三十銭の辞令。当時の物価は理髪十ニ銭、湯銭三銭、花王石鹸六銭、安うどん二銭、草鞋三銭、襤褸で作った草鞋六銭。集配は襤褸で作った草鞋を使い、晴天なら十日ほど持った。
翌明治三十七年二月六日、宣戦の大詔を拝した。その前夜、宿直だった私は仕事を済ませ、午前一時頃、布団を被りまどろんだところ、全員、動員令の電報の配達を指示され、相手は世界一の強国、しっかりしないと負けると言い合い、一晩中、駆け回った。
日露戦争の日本海海戦は、明治三十八年五月二十七日だが、大本営からバルチック艦隊全滅の報があったのは二十九日の夕方で、新聞全紙大の号外を手にして私は狂喜。その折の嬉しさ……有難さ……。この号外は、惜しくも震災のときに焼いてしまった。
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湯の帰りに夜店をうろつき、絵葉書を見るのも楽しみだった。日露戦争当時、絵葉書が熱狂的に流行ったが、戦争記念絵葉書は発行直後、右から左へプレミアム付きで売買され、絵葉書屋の夜店が至る所に現われ、様々な絵葉書を白い封筒に入れ、福袋と称し、一袋一、二銭で売っていた。大勢の人が押合いながら封筒を燈火に透かす、なかに優秀品が入っている袋があったので、私もそれを当てようと、湯の帰りに福袋を買い、封筒を破る一瞬が無上の楽しみであった。
……自伝抄録・祖父の肖像より
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