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2005-06-10

インターネットは顔が見えない

聳え立つ市庁舎(1998-07-05~1999-02-17)より

過日、テレビの番組で、よく知られている作家が、インターネットは顔が見えないので、情報媒体としては疑問があるという発言がありました。また他の機会には別人の、インターネットから発せられる情報には価値がない、という批判も耳にしたことがあります。

地表には、顔の見える発言者がどれ位いるのでしょう。日本にも、発言可能な人間は一億近くはいるのでしょう。その何人が顔を見せながらものを言えますか。テレビでは星の数ほど芸能人が現われては消えていきますが、画面で発言できる人間は、代わり映えしない見飽きた顔がほとんどではありますまいか。

確かにインターネットでは、その多くが顔も素性もわかりません。しかし顔の見えない何十億もの人間が、ネットワークではなく――租界や団体や組織に属さず――個人の資格で発言できる媒体を得られたのです。これほど自由な技術革新を、私はほかには知りません。

インターネットで流される情報に意味や価値があるかないかは、情報を受理する側の個人的事情にすぎません。二歳の子には、経済新聞の活字も墨の汚れと変わりありません。

マクロはもうたくさん、という感想を私はもっています。世の中を震撼とさせている金融不安も、組織に属そうと個人であろうと、個々の人間のお金儲け、ないしその職責が結果したものではありますまいか。「自然労働――、および棄民と負民の人間労働」を搾取しながらマネーゲームに奔走する加民の誰もが無知と貪欲の虜、というのであれば、まだ理解もできますが、高度の知性を有し、先端技術を駆使する姿をみてしまいますと、今の高等教育にも、胡散臭さを感じてしまいます。

私には「素顔」を見るのにテレビは必要ありません。政界人や財界人や、技術者や作家の上辺の顔は必要ありません。「素顔」を見るには、金銭欲や名誉欲や、支配欲や権力欲や、性欲や家族愛や奉仕精神や自己愛やなんやかやを見るには、当事者の文章表現があれば充分です。一方「素顔」の見えないシステムには、もし「鉤(かぎ)」が失われているのであれば、それが行政であれ金融であれ不安になってしまいます。

先日「草原に朝の食卓メーリングリスト」の案内文に、家計を軸にした五十歳以上の分布を追記しましたが(その後、再び削除)、この表を皆さんはどのように受け取られましたか。様々な立場にご配慮を、というお願いが第一ですが。

水と油、水蒸気と氷塊、なんですね状況の違いによって我々は。理解なんてできないし、歓談なんてありえない、と思いますよ、もし過去の轍を踏みながら他者に対するのであれば。

私は自由が好きです。思いやりとか気配りよりも孤立の自由を選びます。そう、鉤は「踏踊」にあり、なんですね。氷や水にとっては、水蒸気や油から気配りされても、嬉しくはありません。

ときどき謎めいたことを書きますのは、対話で発散させるのではなく、一緒に考えて欲しいからです。(五四)

再び横にそれます。これもメーリングリストによる連載の「特長」です。

この国では、「ある自由」を自覚していない人が少なくありません。もし「それ」を自覚したなら、もっと吟味した発言が増えると思います。ウチには数年前まで、英語に堪能で、日本の就労ビザを取得していた即戦力の韓国人がおりました(韓国中心の時代では韓国籍、中国中心の時代では中国籍が雇用の基本になります)。

彼の対日感情には微妙なものがありましたが、「日本の魅力は何か」と尋ねましたところ即座に「自由にものを言えること」という答えが返ってきました。言論も報道も思想も自由、その自由を我々は自覚し、魅力を感じて発言しているとは思えません。

電話や電子メールは「安定」の生命線ですから、海外との直接交信に、神経質になっている国があっても不思議はありません。逆に言えば、関係組織の一歩上の段階でも、さらにその上の段階でも、海外との直接交信ができない場合、地域を統括する有力者が口をきけば、たちまち通じてしまうことがある訳です。なお、暗号の使用を認めていない国もありますから、日本で育った社員がそのような都市に駐在するときは、自由にものを言えるありがた味と、通信の秘密が漏れた場合の困難さを、事前に講釈することにしています。(六三)

自助、自己責任、痛みのわかち合い、ジャーナリズムで盛んに流されてきた言葉です。では現在の自助は一体どこに? 棄民や負民や零細に向っては、社説も評論も自己責任の大合唱ですが、いざ金融機関破綻の危機に直面しますと、公的資金まで投入して他助を云々する厚顔に、液体窒素なみの白けを感じてしまいます。

私には、金融機関の臨床的、さらには根源的対策を云々できる知識や資格はありません。薄氷を踏む思い――が冷たい怒りに火を点じるのです。相対的な人の気持ちに、必要な手立てがとられていません。

私一人であれば、野垂れ死にしてもサバサバしています。しかし、私には妻があり子があり家族がありますので、破綻しては絶対に困ります。ですから、編集委員も論客も高処で筆をとる前に、場の痛みを実際に満喫――、いやいや、傷んでは心臓が綻びますから、せめて厚氷の上で震える程度の学習は、高処にいたる過程で必修となし、負・棄の実情に合った言論を、などという他者頼みには、幻想も出つくしました。

わからないのだと思います、その状況に置かれてみなければ。

親子関係や夫婦関係や家族関係も同じです。論じるための男女や家族ではないのです。実践抜きの、机上の男女や机上の家族は要りません。

轍は深い、ですから関係の「鉤」と、子への贈り物が要るのです。理解なんて食傷気味。(六五)

昔、いや、大昔でしたか、私は随分、夢を見ました。国家に夢を託したこともあります。政党に、官僚に、指導者に、英雄に、作家に、企業家に、知識人に、哲学者に、思想に、信仰に、お酒に、技術に、報道に夢を見たこともありました。しかしみな幻想でした。見た夢の相手はことごとく幻想でした。自恃(じじ)でさえ幻想だったのです。(九七)

ものを言うのは簡単ではありません。ものを言うには勇気が要ります。自己嫌悪につきまとわれ、非難され攻撃されることも起こります。言論の対価は決して甘いものではありせん。しかし誰もが機会や媒体を得られたとしましても、その方法が普及することはできないと思います(言論は、誰もが真似られる、という振りではありません)。まして子の世界であればなおさらです。

以前、私は自身を叙事詩人と言い表わしたことがありました。また筆名に徹し、自己紹介も省いていますから、それを韜晦とみなされたこともあります。韜晦の叙事詩人――? しかし実名を書き履歴を添えたところで、それに何の意味があるのでしょうものを言える媒体を持たない人間には。

私はふつうの人間です。もともと私には「ものを言える媒体」はなかったのです。出版にも報道にも日記にも同人誌にも縁のない人間が著わせる文章とは、年賀状か遺書ぐらいのものでしょう。出版社探しもたったの一人、本作りも見よう見まね、ですから、当然、特記すべき履歴もありません。そのような人間が、つまり身の丈一個が権威とか複写効果に与からず(力量のなさゆえに与かれず)ものを言っても、砂漠にまくコップ一杯の水なのです。

身の丈一個の人間とは、砂漠にまく水滴一粒と同じです。身の丈一個にとって言論とは、権威や権力が指し示す綱領や公約にすぎず、決して能動的働きかけには(十全の集中を約された思想には)なれないと思います。いかに画想を練ったところで、画材を欠いては、自らの思想は、広告できる訳がありません。

言論は趣味ではありません。自己の生活を条件づけられている環境および状況に対する「もの言い」です。その言論を、仮にうまく表現できたとしましても、その表出が、誰にでも生き甲斐になりやり甲斐になれるほど、機会は均等ではないのです。

機会の制約が、言論もまたエリートに私物化を認めてしまったように思われます。このことは、足許から取り払われた自然環境にも、足許から持ち去られた身体の運動の機会にも言えることです。自然も身体の運動も、御輿担ぎや舞台の観劇とは無縁だったと思います。しかし今や、自然は保護運動の神体に、身体の運動はエリート輩出の事業にすり替わってしまいました。

言論も、足許から隔離された自然も勝利の拳の運動も、身の丈十全の「踏踊」にはなれません。もっと身近で、もっと自由です「踏踊」は。(一〇〇)

自己の頭脳を覗いてみますと、皆さんの「畑」には何が見えますか。恥ずかしいことに、私には、まだはっきりとした輪郭が見えてこないのです。私が消えるときには、一体何が残るのでしょう? もし何も残らなければ、私は「鉤」を見出すことができなかったことになります。

自然の戒律とか自然の律法の話です。以前、ある随想で触れたことのある「自然法」の話です。皆さんはどのような規範に従ってお子さんを育てられましたか? 無意識に? ということは何らかの目に見えない標準とか手引きとか手本に従っていたのでしょう? そうでないと、初めての子育てを「自然」に行うことなど不可能です。従う規範が「関係の海」に漂う目に見えない風潮や支配的習慣であったとしましても、子育てにとっては、行為や考えを支配される「法」が存在していることに変わりはないのです。

例えば信仰者は、人為の法を引き継いでいきますでしょう。しかし信仰者の律法は、ある時代の特定の環境、特定の状況、特定の思潮が結果、さらに同様の要素に条件づけられて変化し続ける「人が人に要求する拘束」ないし「自らが想起し自らが創作した自己の規範への服従」であって、明文であれ口承であれ、信仰者と異端者の色を分け、遵法者と異邦人を識別する態度ゆえに、信仰照応そのものに馴染めない人も少なくないと思います。

同様のことは高度産業化の轍にも言えるのではありますまいか。現在は現在で、我々は目に見えない「法」に拘束され、時代に普遍する奔流に支配され、むしろ流れに乗るために現在の「法」に積極的に帰依しているのではありますまいか。

「法」が避けられない轍である以上、私もその一人として平然と居座っておりますが、同時にそれだけでは信仰照応に対すると同様に、空間でも時間でも、今一つ納得できない何かがあるように思われます。例えば、少し古くなったはやり言葉を真似てみますと、現在の社会を席捲している「法」は今一つカワイクナイ。

現在の「関係の法」には、「自然の法」の視点が欠けているように思われます。(一〇三)

もの書きと呼ばれる人々の、巨視的論説や総括的評論を読むときも同様の感想を持っています。学問の場合は調査研究の段階がはっきりしています。私がものを書き始めた当初から、学者の表現を尊重し、学者の発言に重きを置いている理由もここにあります。

総括したり、物語ったり、仕切ったりするのは、その資質の者には楽しいでしょうが、その立論の根拠である「学」とか「報」とかにとりましては、地味で、労の割に報われない職業だと思っています。その労に基いて展開する理論や分析であれば、研鑚を積んだ学業や実査に基く労作として居住まいを正して傾聴しますが、「学」抜きの評論や実査抜きの論説には、さあ、どのように解釈すればよいのか、戸惑ってしまいます。

「鉤」は何なのでしょう――。どのような法に基いて展開し、どのような規範を遺そうとしているのか、皆目、つかめないことがあります、いわゆる巨視的評論には。

わかっている、という前提があるのでしょうか? 皆さんはそうなのですね。巨視的評論や総括的論説を読むときに、皆さんはすでに共通項をお持ちになり、明確な「自然の法」に従っているのですね。しかし私の場合は子育てがそうであったように、環境や状況に漠然と流されてきただけであって、この社会で生きるということに、納得のいく規範を見出すことができないのです。

私はとても奇妙な孤立感を感じています。今の私にとって一番大切なのは、子らが未来に希望を持てる社会、幻想を持つのではなく、現在の歩みの中でも、未来に希望を持てる「鉤」が、今実際にこの場に存在する社会ですが、私の気持ちにかなう「鉤」が、あるのかないのかさえわからない、というのが、今まで参加してきた社会の現実です。展開された論評なり見解なりが正鵠を射、またその通りになったとしましても、さて、一個の私には、別の一個の私には、さらに一個の私には、もう一個の私には、一体どのような希望が生まれるのか?

評論の主体もまた環境と状況の子です。当然、能力や資質や経験に応じて、それぞれ人間固有の照応に従います。人は絶対者ではないのですから、秘めている内面の思想や感情もさまざまであるはずです。その様々すべてを代表することは、一個の人間にはできるはずもありません。一方、社会でも(社会には自我がないのですから)やはり一個一個にとっての幸福が必要なのです。従って巨視的論者は、自己が実践している「鉤」を開示してくれませんと、ただでさえ目の前の現実と独立している抽象論や概論には、その私的根拠や一個一個への影響を推し量れない点で、傍観者的距離や職業的自慰を認めてしまいます。

企業や役所や議会が意志を決め選択するその主体は、抽象的組織ではなく生身の人間です。しかも生身の人間には、感情もあり資質もあり、誤謬もあり錯誤もあり、だれ一人天才はおらず、だれ一人標準もありえないと思います。その人間が「絶対的判断」など下せるのでしょうか、少なくとも「自分と自分の家族」以外に対して。

意識しようと無意識であろうと、選択や決定は何らかの「価値判断」に基いているのだと思います。その「価値判断」が自然体でできてしまう状況に(環境も状況も刻々と変わっていくのに、自然体が崩れず暗黙の合意ができてしまう社会に)奇妙さを感じないではいられません。(一〇四)

大人って勝手ですね。面白くなかったら、お酒を飲めばよいのだし、主婦はお喋りで発散させればよいのでしょう。その勝手な大人が子に対すると「勉強なさい」はマシな方で、小学校から塾に駆り立て、ふたこと目には「将来のため」――。

ではお尋ねします。子の将来とは、子が大人になったときの話だと思いますが、それでは今の大人の社会とは、そんなに大層なものでしたか。今の大人にとって大層なのは「子育て」だけ、子の仕合わせだけではなかったかしら? 私にとって失業がつらいのは、貧困によって子が不仕合わせになるただその一事(すまないのは妻に対してですが、それは妻に見る目がなかったと諦めてもらっています)。

大人は「そうならないために」と言います。その「そう」が何を意味しているかわかりませんが、そのためとやらを達成して獲られた特典が、御輿担ぎの絶頂であり采配の有頂天であるなら、それはひと握りの勝利の拳にすぎますまい。大多数の人間にとっては、条件反射の塾勉は幻想なのです。

せっかく六三ないし六三三ないし六三三四という歳月を勉強に費すのですから、なぜその膨大な努力を、御輿担ぎの下支えの、社会を形成する圧倒的多数の、充実や、喜びや、生き甲斐に、直接、力強く、結びつけようとはしないのでしょう。(一〇五)

充実とは無縁の言葉が後から後から降ってきます。舞台壇上の主体にとっては、紛れもなく充実でしょうが、下支え側との格差があまりにも大きすぎます。たまたま私の場合は、小商人の根性が骨の髄まで染み込んでいますので、こけても落ちても空手(くうしゅ)では復しません。従って無策押しつけの自助でありましても、高処傍観の痛みのわかちあいでありましても、下支えだけの自己責任でありましても、すぐにどうのこうのということはありませんが、もし私がふつうの勤め人として生活しているのであれば「リストラの思想」一つとりましても、その思想に与する同世代勝ち組に対しましても、もう何も言えないほど距離を感じてしまいます。

六十五歳まで、俺はどうしたら食っていけるのか。改めて職を探すとして、果たして再就職できるのか。仮に職を得られたとして、就労の喜びは復せるのか――。

子がみな自立した後も、この社会に在ることに自信がありません。人生は生きるに値する、と前の随想で書いたのですが、子離れした後、私はこの社会での人生に充実の予感が持てません。「醜いな――」なんて言うこともできないほどお先真っ暗な木の葉にとって、楽隠居を口にできる人がとても不思議。

「毎朝十キロ走る」と言いますと、「#◇~※×~?○☆――!~?※×-×$――☆!?―」というようなご感想をいただくことがあります。あるいは、私など露知らない専門知識や心理的解説や医学的評論をご教授いただけることもあります。これがゴルフやテニスですと、無数に同好の士がいらっしゃるので、「ゴルフはどうも」とか、「ハンディはおいくつ」などの対話が成り立つのですが、早朝十キロのランニングともなりますと、とてもとても。

あらゆる(というのは不確かですが)情報が、時間と空間の隅々まで浸透している社会ですと、我々は何でも知っているような錯覚に陥り、何でも知っているように直ちに応じ、微塵も経験していない例外事項でさえ、反射的に口をはさんでしまいます私自身。

自分で走ろうとはしません。しかし口をはさむ社会があります。

これからの子には、文章で表現できる人間になって欲しいと思います。文章で表わせば、未経験の課題に対しても、後日、自己批判と他者批判を受け取れます。真摯な充実を、美に値する充実を、知って欲しいと思います。(一〇六)

先週の週末は、金融機関破綻の報道に釘づけにされました。その会社には、対外的にも活躍している同期生がおりました。彼については、彼の友人と、米国からの留学生の四人で出かけたユースホステル利用の北海道旅行が思い出されます。

システム破綻の責任と、下支え一個一個の行為は別です。

この社会では、私は、例えば会社に入り、限られた選択肢の中で精一杯働き、自分で生き甲斐を感じる以外にウマイ生き方を知りません。しかしそれだけに、自分の歩んでいる轍を突然断たれますと、転職が常態にはほど遠く、再就職の門戸が極端に狭く、せいぜい「失意就業」の機会に巡り合えれば僥倖とされる我々の多くは、たちまち生活に行きづまり、喪失感、さらには絶望に囚われてしまうことさえ稀ではありません。

どのような労苦もことごとく過去になります。その間、朝の太陽は大いなる癒し手として支えてくれます。しかし辛気(しんき)臭いこのような物言いが、子にはどれだけ役立つのでしょう。

仮に――、仮と言う言葉自体、欺瞞に満ちていますが、仮に粉飾や不正があったとしましても、それはまったくの結果論だと思います(二重生活の一面では――)。もし、その方法によって乗り切れるのであれば、粉飾を回避して実態を露呈させてしまう選択こそ、人為の法に殉じ、自然法を蔑ろにしていると判断されます。

秘すのは何も「政」や「軍」の特権ではありますまい。我々もまた、表面はいか様につくろっても危機を隠し、時間を稼ぐべきだと思います。後日、破綻で終わった場合も、隠蔽や粉飾に対して浴びせる倫理的非難は現実的ではありますまい(結果を問われる営為では――)。下される裁断はひとえに修復力の拙さ、読みの甘さ、および傷口を深めてしまった監査・環視体制のお粗末に対してであり、同様に当事者の感じる不本意も、外圧に対してではなく、自己の状況判断の甘さに対して矛先を向けるべきだと思います。

破綻しては、妻や子の、不安や悲しみは避けられません。手段を選ばないで引き延ばし、有耶無耶にさせてしまうやり方を、私が当事者であれば率先します。人為の法に対する遵法精神や形式主義は足枷になるだけです。しかし同時に、結果主義から得られる利とは(現実的な手段を採用するその根拠とは)、ウチウチの利得のためでは決してなく(利己主義の発揮では決してなく)、下支えの万人に普遍する「様式」として、という前提が必要であり、かつその「様式」とは、下達される上意では決してなく、振りを問わない様式美でもなく、利益を享受する個体が自ら舞うことで具象化させ、引き継いで行くことのできる「踏踊」であると考えています。 (一〇七)

かくて誰もが
マスコミに白旗を掲げるインターネットの表現理念
インターネットの意義、あるいは情報赤貧の悲哀



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