« 今の子だって同じさ | トップページ | ブログを始めないブログ »

2005-05-27

過去に生きている

中学生になった頃、父から商品見本のジャンパーを譲られたことがあります。その胸の刺繍が厭でたまらず、丹念にほどいてしまい、針跡に布切れを縫いつけて着たものです。刺繍の意味は、当時一部の若者が憧れていた海外ブランド。今でも、製販の業者が顔を出す雑貨や衣料は、もらいモノは我慢しますが、出来るだけ勘弁して欲しいです。

泡期の遥か以前、某量販店が、単品を途上国から大量に仕入れ破格の安値で販売、在庫が通路まで食み出し、その活況が寡占媒体でも報道されたことがあります。しかし、残されたのは不良在庫の山と、その素材の需要の破壊と、途上国産地の荒廃でした。産地も下請けも久しく生活する権利があります。大規模業者の栄華のために、目先の蓄財のために、関係する内外の業者とその家族の生活を破壊する行為は、法律上は妥当でも、父親としても母親としても認められない、なんて書いたこともあったです。

「歴史」を引き継がない生活は、その場では建設的、創造的、革新的に見えますが、「俺が」主義の美意識に囚われてしまい、消耗・破壊・混沌と背中合わせ。ここでの「歴史」とは、体制や民族や、国家や民俗のそれではなく、祖父が大切にしていた一本の樹、祖母が愛した一組のお皿、父が使っていた古い写真機、母が描いた一枚の絵。

通った学部は商学部でした。なのになぜ、商学の講座も商人学の講義もなかったのでしょう。世界の商人の生活や、世界の商慣習の歴史は必修に値しない? 況して商家の家族の生活史なんて眼中にない? 歴史って、庶民一人一人の顔の見えない言葉の羅列、だったのですね、今までは。

以上が今朝(2002年5月8日)目覚めたときに頭にこびりついていた文章です。

クリスマスの季節-19-

テレビを見なくなりました。その見ないテレビを、国が何処へ行くのか心配でしたので、久しぶりに見て、再び同じ想いを味わいました。ある番組では政治家が討論していました。別の番組では同じ政治家が質問していました。国会中継はラジオで聴きます。議員の発言や専門家の話はラジオが好きです。専門家とは政治評論も経済評論も学問を修め、しかも実務と現場に通じている人。

一人残らず壇上から降りて欲しい、とついそう思ってしまいますが、昔の色分けですと体制側と言ってよいのでしょう、前々から気になっていた(共感している)ある政治家が史実に則して(歴史を知らない私ですから多分ですが)法案の不備を指摘、対案を提出すると発言していました。

壇上の皆さんは、歴史をどこまで真剣に学んだのでしょう。場内は水を打ったように静まり返っていました。危ういですね、国会も寡占媒体も一部を除いて、歴史の勉強に手を抜いて世の中を動かしている? 俄(にわか)勉強で足りるほど、過去は軽くはないと思います。過去に生きている筆者(管理人)を哀れむ人もいますが、過去は私には大切です。過去を「借景」と置き換えてみて下さい。借景を過去に置き換えるのではありません。

一つは住環境の借景。
一つは今を生きる心の借景。私の場合は絵の好きな暮らしの借景。
以前の随想では「踏踊の扉」と表現しました。
一つは時間軸の継ぎ目の借景。
三番目の借景がいわゆる過去。

哀れまないで下さいね。過去の借景も、法律や、予算の優先順序や、開発の基準を左右するほど重いのですよ。三つの借景のうち二つの居場所は、一人一人の中にしかありません。

クリスマスの季節-19-


牡丹は、蕾から花弁を覗かせ、八重桜と、アメリカハナミズキと、野田フジは太陽を浴び、朝の窓辺で輝いていました。今日は四月十三日(2002年)。今年の連休は深緑かも。

また一つ、インターネット上で「勲章」を戴きました。今回は、過去に生きている筆者(管理人)を哀れむ勲章。

自意識が覚醒した瞬間、歴史が消滅し、黄泉(よみ)に旅立つ瞬間、歴史が自意識に帷(とばり)を垂れる、なんて想っていましたよ、自己と歴史との関わりを。

横断面では兎も角、時間軸では実感が湧かなかったのですから、今まで随分、損しましたね。皆さんはご自分の、上でも横でも後でも、我が身に接するもう一つの世界を、無視します? それとも往き来します? ご自分でもご家族でも、誰かが一歩を踏み出さないと・・・

流れに乗りますと、感情なんてほとんど割り込めません。しかし「勘定および痛み」は別です。あまりに大きな損失、あまりに大きな痛み、なんですね~、政経の失策は。

哲学なんて言葉、関係ないです。理念も要りません。はじめての子のご誕生を、皆さんはどのように記憶しています? それと、情報の発信なんです。

六十年前でも七十年前でも、向き合う姿勢さえあれば、記憶違いや空白なんて瑣末(さまつ)なことです。まして、五年前や十年前は、決して忘れたなんて言わせません。哀しいですね~、相変わらず、過去に生きなければならないなんて。

前項の前段の過去は、白紙に戻すことの出来ない「足跡」を意味します。見失えば悲劇を繰り返すことも。見出せば、何が大切だったか判るかも。

後段の過去は、年貢による飲み食いとその隠蔽、あるいは個々の深層まで根を据えてしまった「観相多弁の舞台本位制自己耽溺主義」

クリスマスの季節-17-
クリスマスの季節その120 ←携帯版の通し番号です



|

« 今の子だって同じさ | トップページ | ブログを始めないブログ »