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2005-04-30

真砂から砂浜へ

私が初めて操作したPC/AT互換機は、ハードディスクがなく、実行用とデータ用のフロッピー二枚だけで操作するラップトップの三菱MAXYでした。それでも帳票の雛形を作成してから日本語FEPを外しておきますと、貿易、生産、経理などの事務処理に威力を発揮、目に見えて時間と手間が省けましたので、「義理で導入したものの持て余しているであろう小さな会社」の処分品に思い至り、ある経路に問い合わせましたところ、当初はプリンタとのセットで三万円、やがて点検する暇がないとかで一山三万円で取得、大手でも珍しかった時代に一人一台、PC/AT互換機(AX規格)を使えるようにしたのです。

当時のMAXYと今のパソコンでは何が変わったのだろう?

新卒時のお勤め時代、新幹線で遠方の事務所に出かけ、部屋全体を占有するIBMを使わせてもらった時は、大きいな~!と思わず溜め息が漏れました。同じ職場でコピー機を使えるようになった時は、女性社員にお願いする重圧から救われました。新卒時代の二人一組の教室坐りは、男性社員が仕上げた報告書を女性社員が半透明の方眼紙に鉛筆で清書、青焼きを役職者に配布するのに好都合だったのです。青焼きとコピー機では何が変わったのだろう?

インターネットが表現に課している変化を、私は理解していると思います。インターネット以前は過程と総身が省かれていました。利用できる媒体がなく、情報開示に難ありの状態を余儀なくされていたのです。

MAXYのフロッピーに主(あるじ)の居場所はなかったですが、今のパソコンにも主(あるじ)の空白が目につきます。昔は常に目一杯でしたが、今も真砂状態は変わらずです。今は波が寄せては引いて行く砂浜があるのにです。

情報の革新技術が結果する変化は、今まで出来ていたコトモノを速く、安く、広く、綺麗にするだけではありますまい。今まで出来ていなかったコトモノの実行も課していると思います。例えば報道。例えば評論。例えば学問。例えば技術。例えば政治。例えば経済。選り抜いた真砂であっても、粒で浜を感受するのは不可能ですから。


 結婚


私の九冊目と十冊目の随想は、ある交響曲を聴きながら読めるように合わせてあります。「ながら読み」しますと繰り返し読みが可能になります。発見でした。聴くだけでも読むだけでも味わえない興趣。その頃からです、例えばですが、見解を「否定する」と書いた箇所を読み返して、リズムがヘンな場合は、ヒテイの三音をコウテイの四音に改めるようになったのは。

十万字や二十万字の中の否定一箇所を肯定に改めましても、曲がる程度は知れています。文章も「表情」が大切です。編集者や校正者や表紙絵が介在する、誤字のない、活字の綺麗な書物の方が、表情の変化の度合も著しいのでは? 小学生が描いた水門の絵に朱を落としても、絵の個性は伝わりますが、大人が風合いを変えてしまえば、見飽きた入選作が増えるだけです。

ヘンなこと言わないで下さい

客体化の鏡として、インターネットほど有効で、インターネットほど普遍性のある媒体を知りません。比較級のもの言いは不正確です。過去、共有媒体(あるいは普遍媒体)はなかったのですから。

解けた疑問

過去、寡占媒体を利用したお一人お一人も、戦争については新聞や雑誌を待たずに語り掛けて欲しいです。ところが、自分のサイトを宣伝するため、著名な知識人の公式サイトを探しましたところ、限りなく無に近い現実に愕然(がくぜん)とさせられました。今の私は職場を一歩離れますと、音楽なしではいられません。昔、お酒なしでは暮らせなかったのとそっくりです。

インターネットが一層浸透しますと、寡占媒体の報道にも影響が現われるかも知れません。一語一語の発言を点検して摘発していた「正義の訂正要求」が、単なる揚げ足とりに変わったりして。その寡占媒体自身、過去の膨大な活字は悉く無謬なんでしょうか。

私の随想は大昔からそうだったのですが「表現は総身」という考えを貫いています。全部の随想がたった一冊なのですね。インターネットの個人サイトも、もし表現を試みらていられるのなら、誤字誤謬満載の総身になるのがホントウだと思いますよ。無謬の人には就いて行けません。現在は印刷媒体の「枷」から解放されたのですから、特に寡占媒体で知性とか権威とか称えられている人になればなるほど、インターネットで総身の表現を……

書くも描く同様「自然」なことでは?

先日来、寡占媒体でも共有媒体でも一つの話題が取り沙汰されています。ある放送媒体の支配権を、誰が握るかというとても古風な買収劇、なのに不思議ですね~聞こえてくる言葉に、新媒体と旧媒体を融合するとか、旧媒体の終焉(しゅうえん)を早める等の主張や解説が紛れ込んでしまうのが。

文章表現の私の態度は「ふり~」にあります。表現する気持ちの自由と、公開の機会均等にあります。商業出版社にも趣味の団体にも依存せず「ふり~」で表現できるのがインターネットの時代です。それは文章表現を、媒体の枷から解放することにはなりますまいか。代弁者の文筆に拠らず当事者が直接自己を著わし、媒体の権威に拠らず読者が直接試食する、状態が拡がるとよいですね。

過去の言説に責任を持つ発行者や執筆者は先ず見当たりません。言論の世界は言いっ放しが常識なのでしょう。

総体の表現を、時間の制約も、量の制約も、金銭の制約も、地域の制約もなしに出稿できる媒体は、従来の技術では考えられませんでした。時間を刻み、部分を千回小出しにしても総体は掴めません。しかし先端事業者を除く多くの会社は、未だに従来型の表現をインターネットに横滑り----させていようといなかろうと私にはどうでもよく、権威ある文筆家の姿勢に関心があります。

インターネットを貧しくするか豊かにするかはヒト次第です。文章の表現者、特に権威ある論客が、これまでマス媒体や有力な出版社を介して流してきた言説は、得意になりたかった? お金が欲しかった? だけではありますまい。表現の中身に、主張の流布に、問題意識の醸成に、あるいは啓蒙に第一義があったのでしょう。ではなぜインターネットで自己の表現を、その総体を公開しようとしないのでしょう。当事者による総体の表現を、文章の総量開示を、実現させてくれたインターネットは、権威ある傍観者と干潟の沙蚕(ごかい)の違いも、明らかにさせてくれました。

マスコミに白旗を掲げるインターネットの表現理念

……耳元でカラスとキジバトが、嘘ね、嘘ね、また嘘ね

借景の演出、あるいは点の撮影角度

最初の校正者と私の間には、中世の水墨画と現代の漫画ほど距離がありました(私は後者)。その距離は校正者ご本人もわかっていた筈。しかし降りてしまいますと、現役を引いたとはいえお仕事を一つ失います。また馬の骨の私に譲歩すれば、業界で培ってきた実力が泣きます。一方、私も誤植は困りますが、文章は「誤字も訂正しないで欲しい」だったのです。

誤字も訂正しないで欲しい

情報の開示と情報の提供は、同じではないですよ。

涙国は情報開示の暗黒星雲?

木を切るのは好きですが、木を切るのは嫌いです。

どっちでもいいや



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