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2005-04-08

校庭と通学路

蜘蛛(くも)はお好きですか。私の家には蜘蛛の居候(いそうろう)がおります。観葉植物の植木鉢に小型の蜘蛛が、家主を無視して居座っております。夏は門に、鬼蜘蛛や女郎蜘蛛が巣を張って家人の通行を妨げます。蜘蛛が好きなのではありませんが、手のひらに乗せる位は何でもなく、居候蜘蛛にも寛容な態度で接しています。蜘蛛からはじめましょう。

小学校の通学路、と言いましても当時は好きに選べましたが、一間幅の裏道の、塀のない平屋に、椎や珊瑚樹の古木があり、その根元の袋状の蜘蛛の巣を、地中から慎重に引き抜きますと土蜘蛛が採れたのです。土蜘蛛は足が早く、すぐ逃げられてしまいましたが、袋を引き抜く感触が楽しく、寄り道をしては遊んでいました。私が土蜘蛛と呼んだのは、ジグモとかフクログモと呼ばれる種類だそうです。

珊瑚樹は懐かしい木です。脂ぎった葉と、煤(すす)によごれた武骨な幹に愛着は湧きませんが、年に一度、輝くときがあるのです。

残暑を過ぎて色づく実がそれ。一粒は小振りですが、小粒が集まって房状に垂れ下がる、その一粒一粒が際立っており、黒ずんだ茂みに赤く輝く、この時はマタタビを前にした猫の気持ち。

ピラカンサ、ウメモドキ、クロガネモチ、ナンテン、センリョウ、マンリョウ、ベニシタン、ガマズミ、イイギリ、ナナカマド、グミ、ニシキギ、アオキなど赤い実が生(な)る樹木には、それぞれ誘いかける何かがあります。珊瑚樹の実はさながら媚薬。

珊瑚樹の先にお墓があります。本堂の甍(いらか)も見えていました。墓石の密集する乾いた墓地、なのに見てしまったのです人魂(ひとだま)を。闇の中で鬼火が揺らぎ、うちひしがれた魂が一つ、すすり泣きながら逝(ゆ)きました。

お墓の先、迂回路と交差する角に雑貨屋。店内は暗く悪鬼に満ちていました。足早に過ぎますと、学校までお店がなく、お屋敷の点在するクロマツの林に、子が叩ける門はありませんでした。

男の子が女物の傘を持つことは悲劇です。黒革の編み上げ靴、黒無地の半ズボンに蛇腹で縁取りした黒の詰め襟、硬い鍔(つば)の黒い制帽。

土砂降りの日、学校から雑貨屋まで傘なしで帰ったことがあります。赤い傘はもうたくさん!でした。家族が傘を出先に忘れますと、母親の傘が残ります。赤い傘をさす男の子は滑稽でした。男の子には濡れる方がよかったのです。

雑貨屋の軒下で震えながら、雨滴の跳(は)ね返る通学路を眺めていました。帰ろうとする気力も失せてしまった、その冷え切った男の子に、傘を差し掛けてくれた若い母親。同じ私立の、一年生を連れた母親が、子が差していた傘を取り上げ「お持ちなさい」と渡してくれたのです。

当時の住宅街や農道には、自動車や単車は見当たらなかったです。自転車や荷車はあったでしょうが、通学時、自転車を避けた記憶もありません。

クロマツの古い林の深閑とした通学路に、カラタチの垣根がありました。カラタチの棘(とげ)は掌(てのひら)を突き通すほど鋭いのですが、通学路は広く、路の真ん中も気ままに歩けましたので、危険の余地はなかったと思います。カラタチの生け垣にアゲハの幼虫が住んでいました。

アゲハの幼虫は鳥の糞そっくりの状態から、やがて鮮(あざ)やかな緑に変わります。緑の幼虫は頭を突(つつ)くと、橙色の角(つの)を出して奇妙な臭いを発します。「調合を間違えた芳香剤」の臭い。脅すのが目的でしょう、指で摘(つま)んで持ち帰り、カラタチの葉を与えた何日後かに、幾何形の蛹(さなぎ)に変身、体をピクつかせ、さらに何日後かに引き出しで羽化、キアゲハではなくクロアゲハでした。

幼虫の発する臭いを悪臭と表現する百科事典があります。アゲハの幼虫は「見つけしだい捕殺しましょう」とする園芸書もあります。アゲハの幼虫が発する臭いは、飼育を躊躇する悪臭ではありません。家庭園芸では、幼虫を間引くことで収穫との共存も可能です。アゲハの自然を狭めたのはヒトのほうです。お孫さんにも、羽化の感動を与えて下さい。

私には郊外の高楼よりも、一極集中を加速する新線や、内海の巨大な架橋よりも、瓦礫の含み資産を高度化するよりも、蜘蛛が巣を張り、アゲハが羽化する通学路のほうが大切です。遠隔地の景勝や壮麗な娯楽施設よりも、日々寝起きする足元の自然のほうが大切です。我々の現代社会は不思議なほど奇妙。

小学校はクロマツ林の外れ、西側は住宅街、北側は田畑の、クロマツの地面から少し下がって所在。校舎は木造平屋、西側の一角に図工室、舞台のある体育館の裏手に音楽室、南向きに一~三年の教室、職員室、保健室、四~六年の教室、校舎の前に朝礼に使う校庭、校舎の東隣りに赤土の運動場。プールはなかったです。

運動場はサッカー1面とバスケット2面相当の広さ。ソフトボールは一度に3面。校舎のぐるりは何かで囲われていました。運動場の東側はクロマツと雑木が塀の代わり。運動場の出入り口には低い杭があるだけで、早朝も夕方も出入り自由。

校庭の運動場寄り南側に小さな蓮池。小三?の頃に造成。地面を垂直に掘った丸池で、踏み外せばドボンですから、焦がした丸太で囲ってありました。蓮池は昼休みになりますとエビガニ釣り場に変わり、柵に腰掛け、柵につかまり身を乗り出して、エビガニ釣りに興じていました。

休み時間の注意も、放課後の門限も、部活やクラブの占有も、校庭の使い方の指導も規制も知らなかったです。一歩教室を出ると自由でした。

先生が生徒を厄介視しますと、その気持ちは先生の表情に表われます。先生が相性の悪い生徒を疎(うと)んじますと、いくら上辺を繕(つくろ)いましても、生徒は先生の心を感じとってしまいます。それでも生徒は先生に権威を認め、先生を信じ、自分の落ち度と思い込み状況の改善を願います。生徒の苦悶が始まり、先生のストレスが募ります。

大人は自分の行為や自分の考えに、理屈を捏(こ)ね、自分を正当化し、自分と折り合いをつけることができますが、子は大人ほど厚顔ではありません。大人は人間関係を運不運で片づけますが、子は大人ほど鈍感でもありません。なのに子には選択権も決定権もありません。酒を飲んで管(くだ)を巻くこともできません。では居場所のない子は、どこで息をしたらよいのでしょう? 自然を必要としているのは、大人だけではないのですよ。

運動場の北の小道には小さな沼もありました。放課後、この沼で釣りをしたことがあります。蒸し暑い六月のある日、餌は蓮池のエビガニの剥(む)き身、針は蛙獲りの三つ又の鉤(かぎ)(←落ちていました)、孟宗竹の竿と凧糸(たこいと)で結び、鏡そっくりの水面に最初の波紋が走った瞬間、グググと引き込まれ、凧糸が魚にからんで手も服もヌルヌルになりました。編み上げ靴で踏みつけ、鉤を外し、凧糸をほどいて放しましたが、雷魚は強靭(きょうじん)です、怒りを全身で表わしていました。

沼を避け、一本南寄りの小道を辿りますと金色の砂地でした。片側は白い野薔薇の生け垣、向かい側は低い竹垣。きめの細かい砂は乾いていましたので、靴の紐をほどいて裸足になり、砂の感触を楽しみました。

陽のあたる砂地には擂り鉢(すりばち)が並んでいました。まわりの砂と一緒にすくい、静かに砂を落としますと、鎌を開いた生き物が現われます。擂り鉢は雨滴の落ちる軒下の砂地にもあります。擂り鉢に蟻を落として、砂の底から攻撃が始まれば、それはアリジゴクですから、そっとすくってみて下さい。

この小道を知ったのはお医者の子を通じてです。土曜はお弁当がなかったので、校庭に遅くまでいられません。生徒の姿が消えた昼下がり、運動場を出ようとしますと、お医者の子が声をかけてくれました。私はいつも2組、お医者の子はいつも1組、私はお荷物、お医者の子は眩しい少年、日常、彼は私の外にいました。

端正な顔立ち。肌が白く、そばかすのある男の子。我が家に近かった彼の家は、庭も建物も広かったです。洋館の診察室を除きますと、瓦屋根の庶民的な造りで、南向き縁側の前庭には丈の高い草が茂り、玄関脇にはツワブキとトクサが植わっていました。

なぜ友を求めるのでしょう。自分のために? だとしますと私は友を必要としません。相手のために? だとしますと私は友とは呼びません。自然に理解し合える相手、自然に共感できる相手、一緒であろうと離れていようと、親しかろうと疎遠であろうと「ああ、君もそうか」と言える相手、それが私にとっての友です。しかし私は眩しがって、彼を理解することも、彼を感じ取ることもできなかったです。

彼の家では紅茶と洋菓子をいただきました。喫茶にマナーがあることを知らず、お菓子を義務のように食べていました。

当時は食が細く、食欲も頼りなく、肉を受けつけず、油料理も食べられず、食べることを義務のように感じている子もいたのです。成長するにつれ、受けつけなかった食べ物にも慣れて行きました。

運動場に出てみましょう。朝礼前に、授業と授業の合間に、昼休みに、放課後に、クラスの別なく、学年の違いなく、一緒に転げまわった運動場です。

厳冬期の早朝、霜柱を踏みつけてのサッカーは、足を引き抜く速さで勝負が決まります。ぬかるんだ運動場は、水抜き直後の田圃と同じで、編み上げ靴がなかったら、サッカーはできなかったと思います。靴も足も泥だらけになりますが、真冬でも靴下をはかない脛(すね)や腿(もも)は洗濯無用。では靴の泥は? ここで記憶が途切れます。

朝一番の運動場は限りなく開放的です。ランドセルを立ち木に吊るし、通学路脇のゴールポストで蹴り始めますと、学年の違う生徒も駆けつけ、ゴール一つを交互に攻め合い、全身湯気に包まれ、夢中になって遊びました。

通学の列が途切れる頃にベルが鳴ります。枯れ木に咲いたランドセルを選り分け、下駄箱に駆け込み、土間の簀の子(すのこ)に放り投げ、朝礼の列に割り込みセーフ! だとよいのですが、まあ、間に合わないこともありました。

小学校に教室がなかったらどんなによかったでしょう。授業なんて何もわからなかったのです。ただただ下を向いて、ベルの鳴るのを待っていました。教室なんて関係なかったです。ですが私は、当時も今も、善いことが善いと分かり、悪いことが悪いと分かりますから、教室なんて必要ないです。政治や経済の高処(たかみ)から、現場に立たずに御託を並べ、右を左と言いくるめ、自らは痛みを回避、泥濘に爪立ち(←ある文学者の言葉)、諸事総花評論でお茶を濁す大人たちは、小学生のころ教室で勉強をし過ぎたので、頭脳疲労に陥り、道理とか社会的公正とかが、分からなくなっているのでしょう。

私の手元には、北京や南京の工業系大学を卒業した残留孤児二世の、勉強のために用意した「小学国語辞典」があります。今の小学生はこんなにも多くを学んでいるのですね、ご苦労様、なんて涼しい顔をしていますが、「小学国語辞典」から出題されたら、今も私は落ちこぼれます。

下級生は専ら校庭で鉄棒や鬼ごっこ。上級生は土のコートでバスケット。では部活やクラブは? 部活という言葉を知ったのは我が子が学校に通うようになってからです。因みに私の小学校(小五まで)の体育館は、雨天体育場、式典会場、学芸会舞台としても使われていましたが、休み時間や放課後の体育館は、いつもひっそりとしていました。校庭も体育館も運動場も、自分たちの判断で使いなさい、ということだったのでしょう。子に任せて何か起きたら? 何かはいつか必ず起きます。その折は何をすべきかを、実際に学ぶのも教育です。

昼休みと放課後は生徒が多く、サッカーは、ソフトボールと、稀に軟式野球に席を譲りました。運動場四隅の、校庭側を除く三隅がソフトのホーム。ノックやキャッチボールが加わりますから、四方八方に目を配りませんと痛い思い。メンバーはその場の勢いで二つに割れ過不足を調整、ある時は力関係で、ある時は阿吽(あうん)の呼吸で守備も決まり、打順はジャンケン、ではピッチャーは? 私は正(しょう)さんが誰だか知りません。姓と名前は記憶していますが、学年もクラスも、運動場以外の表情も記憶にありません。同級生ではなかったのでしょう。

当時の私も、学年で一、二を誇ったことがあります。朝礼の並ぶ順です。当時は昇順に並んでいました。運動場から、朝礼の列に駆け込む私には特に深刻。

力関係から、あるいは遠慮から、私のグローブは、指の間が開き切って、手の甲側に反り返っているアンコ抜きの使い古し、それを真っ先に選んで外野に一目散、肩が悪いので、中継してもらわないとホームに届きませんが、長打を拾いに行く足が速かったので、周囲公認の外野でした。用具運搬係も兼務。打撃力は非力とメチャ振りから、よくて内野ゴロ、普段はフラフラファール。三方から飛んでくるボールの処理、つまり三試合の状況を瞬時に見抜き、ボールを取ったり避(よ)けたりする技に優れ、敏捷(びんしょう)でしたので捕球も及第。

正(しょう)さんの打撃力は抜群でした。背丈は学年の平均程度、体躯は筋肉質で力が漲(みなぎ)り、クロマツの立ち木を抜いて中学まで飛ばしていました。正さんの守備位置は? ピッチャーではなかったと思います。ピッチャーは実力よりも押しの強い生徒の定位置、正さんはピッチャーの奪い合いがもつれた時、もつれをほどく調整役も果たしていました。

正さんが加わった野球は燃えることができました。子の遊びに手抜きはありませんが、燃える機会は多くはないです。鬼ごっこもソフトボールも、最高に値する遊びには中身の濃さも必要です。正さんはソフトボールの中身を、限りなく高めていました。

ある放課後にもつれた折、正さんは私をピッチャーに指名しました。私の投げたボールは直線に近い低目の速球で、打てる生徒は少なかったです。

正さんと組んだ時の私は負けを知りませんでした。しかし私の定位置はその後も外野で、不満に思うこともありませんでした。私の野心は投げることにはなく、特大のホームランにあったのです。

運動場南端とクロマツ林の境、林から地面まで高度差1~2メートルの、西よりの斜面は、松の根を足がかりに駆け上ることもできましたが、東よりの斜面は、砂地をずり落ちずり落ちしないと通学路に上がれません。ということは、ずり落ちずり落ちしながら上がって帰ったことになります。運動場南端の斜面は北向きですので、降雪後は暫く雪が消えません。その1~2メートルの斜面がスキー場でした。

孟宗竹一節(ひとふし)分の、艶のある側を滑走面に見立て、スキー板としましたが、竹を靴に固定した方法が記憶から落ちています。斜面は松の根がはびこる泥混じりのアイスバーン。びびると腰が引け、バランスを崩して宙を仰ぎ、尾骨と背中を打ちました。

ケラケラコロコロ、笑い転げていたのですよ。

……編集中記【その42~59】1997年5月21日~7月7日分より抜粋と加筆

 一つの通学路脇の神社は今も砂地

 小学校は閑静な場所に

昔の今 昭和二十年代?
小三の冬の体育
どっちでもいいや
冥王星
市川市菅野から千代田区神田へ
随想 繊維問屋にて



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