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2005-04-18

解けた疑問

25 May 2001

好きな画題があります。耳を澄まし、目を凝らすと表われる人々の情景です。脳裏に現われる故人の群像ではありません。私の作品は踏踊を表現したもの、光の技法を使っています。

世間一般の作品とは違います。技量の習熟が必要な点は、表現のすべてに当て嵌まります。しかしこの絵を描くには、人と人との関係が必要です。油絵や日本画は、打ち込めば孤独を紛らわすことも可能でしょうが、この絵には、少なくとも筆を持つ本人と被写体二人の、合わせて三人は要るのです。表現への集中を持続できれば、二人でも足りますが、二人より三人、三人より四人と、表現者が纏う衣裳(黒衣)の濃さが増せば増すほど、作品の完成度も高まります。

伴侶も知己もやがては逝きます。遺された側に深まるのが解放感や幸福感なら「今までよく耐えて来ました、ご苦労さま」で済みますが、循環器に障るほどの寂寥感に苛まれ、地に引き摺り込まれる孤独に囚われ、生きる意欲を失えば闘病の苦悶を約束され、永らえれば屈(かが)んだ身幅をさらに狭める、そのような生活が高年者一般の晩年であるとしますと、我々の社会は歩道や公園同様、宛行扶持の生活に甘んじているのと変わりないように思えます。第二か第三かは知りませんが、高年の孤独を新しい人間関係で(過去の延長から生まれた関係の再編ではなく----再編も状況の宛行扶持----従来の生活基盤を清算した例えば再婚、例えば海外移住で)回避できたとしましても、それは伴侶や知己との別れの、一時的先送りに過ぎますまい。

30 May 2001

向かい合う相手が一人もいなくなった場合、なお在り続ける意欲はどこから湧いてくるのでしょう。自身の一生が終わったと観念して、なお生き続ける意味合いを当事者が見出せずに、高年社会の施策の適否を、判断できるとは思えません。自己の生きている意味がすべて止(や)んだと観念した後も、生きて来られた心持ちを、例えば一人で涼風に向かう自由感を、例えば一人で夜明けを仰ぎ見る解放感を、失っても生かされてしまう社会規範を(規範に結果した成り行きの通念を)「想う人々」は納得できているのでしょうか。個々内面の、思想というのであれば自由度が、道筋というのであれば選択肢が足りません。社会に出る前は「ヒトはなぜ生きるのだろう」と自問したこともありましたが、当時はあまりに生きた時間が短かったので、答えは白紙のままでよかったと思います。悔やまれるのは自問に費やした時間そのもの。無理もありますまい。当時は(今も)十代が一人で旅する均等な機会がなかったのですから。

01 Jun 2001

向かう相手が一人もいなくなっても、矜持を示す相手が消えた訳ではありません。科学を持ち出すまでもなく、恒常不変があり得ないであろうとは、自ずと浮かぶ想念です。十億年後もヒトの技術は通用するのか、百億年後もヒトの認識は健在か、と自問して対策を考えるヒトは、ヒト社会への執着心がよほど強いので、晩年になってもヒト社会の中心であり続けるでしょう。

ヒト社会の、存続を前提にしない考えには従いません。理由は簡単です。ヒト社会には大切なものが(自意識が青い闇を纏うときに、対象から与えられる普遍的な歓びが)無数にあるからです。大切なものを見出す生活に較べますと、ヒト抜きの世界はあまりに暗くあまりに冷たい。

ヒト普遍の歓びもやがては消えます。ですからヒトは、相手に向き合うことができるのです、一個としてもヒトとしても。相手とは、ある認識を指しています。

06 Jun 2001

社会に広く?深く?浸透した今、インターネットの意義が少しわかってきたように思います。インターネットは単に、観たり、買ったり、遊んだり、働いたり、話したり、送受信したり、制御したり、決済する技術の一環に過ぎず、郵便や、電話や、写真や、蓄音機や、ラジオや、テレビや、映画浸透時を越える画期性はないでしょう。確かに、取引方法や勤務形態にも影響が現われるでしょうが、それとて、市場や、簿記や、印刷機や、自動車の出現がもたらした以上の巨大な変化は生まれないと思います。双方向通信の斬新性も、個人相互では、ヒトがもっと開化するまで生かされないでしょうし、見ず知らずからの電話に対するのと同様、インターネットでの会話は警戒して当然で、お喋りや、出会いや、雑談の掲示板や、歓談のMLへの期待も、世間から急速に引いていくのではありますまいか。仕事でも生活でも、費用と時間と資源で省ける部分は、片端からインターネットに換わられますが、それは浪費に明け暮れた前世紀の尻拭いに過ぎず、誇れる話ではありません。

客体化の鏡として、インターネットほど有効で、インターネットほど普遍性のある媒体を知りません。比較級のもの言いは不正確です。過去、共有媒体(あるいは普遍媒体)はなかったのですから。

07 Jun 2001

個人サイトはやがて二十億、あるいは三十億に達するかも知れません。そうなりますと、文筆で生計を立てている個人は、寡占の権益を脅かされますから、共有媒体の浸透には複雑な気持ちを抱くでしょう。共有媒体に載せる情報の多寡も問題です。寡占媒体に拠る文筆では、書き溜めた文章すべての公開は、費用や流通の制約から困難でしたが、共有媒体では、限りなく蓄積した資料も悉く公開できますので、読者は、化粧を施した書き物だけでなく、素顔の表現も読めるようになり、文書表現を享受する当然の条件として、化粧に至った過程の資料も、公立図書館の利用同様、表現者の共有媒体資料館で閲覧できます。その資料館の文書が、先人や他人の著わした著作ばかりですと、個人は研究機関や公立図書館には敵いませんから、個人の資料館を訪れる意味が薄れ、化粧された作品の独創性も霞んでしまいます。

実生活に軸足を置く表現の主体は生活者本人です。共有媒体に代筆者は要りません。実生活は切り貼りできませんから、資料庫を公開するだけではとても足りず、打鍵が可能な限り、著わし続ける必要もあります。共有媒体では、資料館の膨張と表現者の誠意が絡み合っています。

鏡に姿を写して、ヒトは自分の多くを知ります。やがて化粧に長け、身のこなしも優れてきます。絵は自ら描き、鑑賞者に観てもらうことで(あるいは無視されることで)表現力を増します。化粧も絵も、公開し、評されることで成長できます。ではなぜ、ヒト一般は著わさずに理解でき、読んでもらわずに(あるいは無視されずに)納得できるのでしょう。認識は悉く言葉に負っています。

21 Jun 2001

三週間も脇に逸れてしまいました。青い闇、いいえ、旅と自然に戻りましょう。ところで私にとっての自然とは、逃げ場でも癒しの場でも保護の対象でもありません。自然と呼ばれている概念や区域の一部が単に好き! ただ単に最高に好き! だけなのです。その中には(好きな対象の自然には)遠方の、遺産に定められた自然や、海外の、壮麗な自然は含まれません。くだらないです、他人の歓びを、指をくわえて眺めているのは。もっとくだらないです、子らに、他人の旅や他人の自然を、指をくわえて眺めさせている生活は。足元は、その地に住まう者が表わせばよい、それが鉤だと思っています。

29 Jun 2001

棄負加の分離? 親が失業した子の気持ちと、失業した親の我が子を想う気持ちはどんなでしょう。仕組みのための想念? 想念のための仕組み? 本末が転倒しているように思えてなりません。過剰な機会は必要ないでしょう、これからの千年は。

随想 青い闇-9-


棄負加の分離?」と書いて「随想 青い闇」を中断したのは2001年6月でした。世の中の絶対多数が、支持した航路に愕然としたのです。

溜め息は一昨晩(九日)も。涙国(るいこく)は歪(いびつ)な大統領制に変わっていたのですね。過程の議論は懸案も反論もよく分からず、上意が直接下達される政を理解するには、報道関係者の質疑に待つしかありませんが、本当に哀しかったのは、濃色限りが隊列を組んで固まってしまい、譴責処分を受けた一隊が、連隊長から絞り上げられる風情にです。

書いたのは2003年12月。濃色限りとは報道関係者を指しています。報壇が主体的になびいたのは、そのさらに二年も三年も前、いえ、泡が弾ける前の、盛んに自助を唱えていた時代からだったかも知れません。

クリスマスの季節-340-


随想(紙の本)を著わしていた折、日比谷図書館で調べても解らない疑問がありました。

今朝(2004年2月16日)は奴凧(やっこだこ)の心境でした。春一番に続いたのは冬○十番。

花が主役は情報の赤貧状態、パラは暮らしの脇に位置する必要があります。花に含まれる情報はバラのほんの一部、家庭の豊かさはバラと暮らす過程にあります。

花に溺れますと、風土の多様性が損なわれてしまいます。今の時代、原形を根絶やしにして、商品作物の生産に集中するのは避けられません。

大量の情報が失われ、豊かさの芽が摘まれてしまう点は、移築して展示する建物も同じです。移築展示は、芝居の出し物や博物館の陳列模型と変わりません。潜在顕在の情報と想念が予定する多彩さが、とても廃墟に(元の場所で朽ちる建物に)及びませんから。

疑問が解けたのは、花に誘われた一般が、一瞬でなびいてしまった現実を目(ま)の当たりにしたからです。文民の棟梁自らが約束事を歪(ゆが)めてしまい、合議の最高権威を形骸化できてしまうのですから、突出した破壊力を実際に操る立場が同じ手法を用いますと、過去の再現も唐突とは言えなくなります。情報赤貧の悲哀です。

どのように書き換えましても、情報収集の主体性と、情報の高品位と、情報を解析する頭脳を欠いては約束事も反故(ほご)、書き換える手間とお金がもったいないです。破ろうと曲げようと痛痒(つうよう)を感じない約束事より、床の間の飾りのほうが実用的。

政壇にも競争が要るのですよ。主体的に集め、英知が解析した情報に基き、ムラ長(おさ)が意見を出し合い判断の的確性を競う仕組み。工学の情報技術だけではまったく不足、人文の情報技術が粗末にすぎます。

クリスマスの季節-186-



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