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2005-04-28

アンタって、ナンテつまらないヒト!

新卒時に配属された部署では、事業所内で有志を募り、スペイン語の勉強会を開催、営業部から参加したお一人は、修得したスペイン語を生かして、国際業務に職務変更。私がスペインを意識した最初です。

十年後、国際部の協力を仰ぎ、出張を準備していた折、スペイン担当で、商社出身のお一人から「スペインも訪れて欲しい」と頼まれたのが、スペインを意識した二度目。

シェリー酒には特別な思いがありますが、私の場合、シェリー酒に結びつくのはむしろイギリス。四半世紀前まで、スペインの関心はこの程度。

スペインを見たい!と思ったのは、それから数年後です。古本屋で買った本は期待に違わず。ジェーム・サバルテ(サバルテス)の「親友ピカソ」、益田義信訳、昭和二十五年、美術出版社刊。英題は Picasso: An Intimate Portrait

さらに二十年必要でした。絵を観たかった? いいえ、空気を吸い、太陽を浴びるだけでよかったのです。「ゲルニカ」も聖堂もオマケなんです。

絵を観るときも、私は記憶を無視できません。特にピカソやミロは、個性的に過ぎるのでしょう、筆遣い・彩色・構図が幾通りにも類型化され、幾重にも記憶されていますので、現代の新作を観るときも、巨匠の様々な類型が割り込んでしまいます。絵の鑑賞も私には力関係。

習作として、巨匠を真似た作品に出合うときは新作の勝ち。興味が湧くからです。

公募展や個展では、類型が匂いますと新作の負け。新作が類型の呼び水になり、新人俳優を前にして、往年の名優を懐かしむ気分。

勝ち負けとは別に「そっとして置く」場合もあります。関心のない作品です。

類型との比較に耐えない作品もあります。素人の作品はほとんどそう。

アンタって、ナンテつまらないヒト! それでホントに、絵が好きなの?

素人の作品も本職の作品も、絵だけを見るのであれば、私はツマラナイヒトで結構です。

作品は一人歩きします。ところで、絵は何処から何処までが作品なのでしょう?

額縁? 展示場の雰囲気? ソレも作品の一部であると思います。しかし、貧しい素人も、暮らしの大変な美大生も、売れない作家もいるのですね。その場合、会場や額縁に凝る余裕はありません。

ピカソには「暮らしの個性的な表現」と、ソレを記録した言葉があります。インターネットの時代なのに、今の作家に「暮らしの個性的な表現」と、その記述が、鑑賞者に見えないのは何故でしょう。

私はサバルテスのピカソが好きなのですよ。ニキ同様、ピカソの扉も磐石です。でも、近年はピカソ展に出かけません。狭い意味の作品は、極めて僅かですが、類型として脳裏に刻まれていますので、企画展の雑踏の、不快感の方が厭なのです。広い意味の作品は、人気殺到の会場や、巨億の取引とは別物です。

人は誰でも十字架を

武蔵野の先生に、一度だけ、随想とは関係ないお便りを差し上げました。唐突に途切れていたご返事の末尾が上の引用。私の随想は九冊で終わっていましたが、この言葉に取り組むため、随想をさらに一冊著わしました。

コツコツが趣味で終わることはありません。絵も彫塑も文章もコツコツ続ける。ただコツコツ。個性的です、その種の表現は。

個性とは、自己の拠る位置および関係です。暮らしの話と、暮らしの個性的な表現は必ずしも一致しません。いかなる媒体でも、手紙でも、インターネットでも、自身のコツコツから逸れた情報は表現に値しません。コツコツが未(ま)だのヒトは、緊張感で補って下さい。

表現の定義:自己の脳裏の情報を、技巧を以って描写すること。

私の場合、定義から出発することは少ないです。解からないのです、そもそも言葉の意味が。出発時の言葉遣いが次第に変質、ある日、定義が出来てしまい、その定義も二年後には変わっている、コツコツって単純ですね。

 ※

冷やした辛口のシェリー酒もいいですが、琥珀色、いえ、金色のシェリー酒は、ソーダガラスまでクリスタルに見えてきます。

スペインでも、レストランでシェリー酒を注文しました。荒い感じ。「シェリー酒を下さい」だけでは無理でした。

一時、シェリー酒がないと、お茶を欠いた生活に思われてしまう時期がありました。お酒、好きだったのです。

今(2002年)は二週に一度、発泡酒をコップに一、二杯の生活です。我慢ではありませんよ。お酒を受容する体の機構が、錆びてしまったのです。お酒は今でも暮らしの要素、売り場を見るのも楽しみです。(←※三年後の今は、室温のビールを週に一度、数缶飲みます。)

先日、お酒の安売り屋さんで長居、厭な顔をされました。水物の売り場ですが、潤いが欠けています。冗談を交わし、手を振って別れられるようなお酒屋さん、ないのでしょうか。スペインの土産物屋さんのように、主(あるじ)が博士や教授でしたらなおよろしい。

中町のお店では、装飾のため、真鍮の枠に、ガラスのお盆を嵌め込んだワゴンを置き、我が家から、イギリス産のウイスキーとジン、ソ連産のウオツカ、フランス産のブランデー、日本産、アメリカ産、カナダ産のウイスキー、世界各地のリキュールを持ち込みました。中身が詰まっていますと、偽物に見えますので、お仕事ですからと割り切って、どの壜も、短時日で中身の空気量を調節、生憎、氷も湧き水も見当らず、生(き)のままでしたが美味しかった。

当時は、我が家の流しの下にも、ジンとウオツカがありました。

私のお酒は愉快なお酒ですから、飲まなくなって、先ず体を心配され、次いでガッカリされたり、意地が悪いと言われたり。

お酒より、好きなお酒があったのです。ビールでは、ピカソがサバルテスを描いた「ル・ボック」(1901年 F25号相当)。一瞬の足許、いいですね。

 ※

神田駅に親しみを覚えたのは、Oさんが通っていた飲み屋からです。

旧人の皆さんは、学生運動の経験がおありでしょう? 旧人とは、役員会議の準備のため、椅子や灰皿を動かしていた際、着席していた営業の重役お二人が、部長や支店長と話していた中で、人事異動に触れ耳にした言葉です。

不思議ですね~言葉は。

当時は、大学にも会社にも、政治運動が湿った空気のように漂っていました。ヘルメットを被り、ジグザグに突き進み、整然と行進する労働組合員を阻む会社員も、その辺この辺にはいたのです。

仮に、生産部と資材部ほどの距離がありましたが、稟議済み全体計画の、形式は部長経由、実質は私が直接、某部署にその部分の実施を依頼したことがあります。相手の担当者が、斯様な先輩社員の一人でした。

その方が、当時の会社を離れてから、ご出版された文章を目にしたことがあります。結果は、やはり書物では、執筆者を理解することは難しい、でした。

過去の随想にも書きましたが、厭な経験もあったのです。ある執筆者の呼び掛けに応じて、文章をお送りした結果、執筆者と出版社に、内容証明で「お尋ね」を郵送した出来事です。

出版に関する通信は、献本のお礼も含め、すべてのコピーを荒牧さんに渡してあります。内容証明の件では、門前払いされるのを先ず恐れたのですが、少なくとも著者が校了前に、私の完全原稿を受け取った事実は認めていました。後から出版する私としては、防衛上も、必要な措置だったのです。

文章を著わす際は↑気をつけて下さい。

書物からは、執筆者の素顔は判らないと思いますよ。画家の素顔の方が、遥かに判り易い。

経済の根幹が、選良による机上の作文や、外国為替の相場や、投機の成否に左右されてしまう世の中が不思議でならず、未だにコツコツ書き続けていますが、「学習しながら自ら育む内的軌範」が「普(あまね)く不在」ですと、孫や曾孫の行く末が不安になります。しかしそもそも、ヒトを理解する方法が、私には判らないのですから情けない。

神田の飲み屋を知ったのは、先輩社員Oさんのお蔭です。

 ※

私の書き物はデッサンとお考え下さい。随想の書き始めに「画家は繰り返し同じ主題を描きます」と書いたことがあるのです。書くたびに表情が変わります。内容の整合性を意識した書き物は、私の感性に合いません。

「店」の手伝いが主で、大学へ通うのが従だった私は、今も二通りの夢に悩まされます。一つは

大学を卒業後、再び同じ大学を受験、合格。卒業証書はあるのですから、今度は卒業不要を心の支えに(ヘンな支え)まったく通学しないでいますと、期末試験を受けられませんから取得単位ゼロ。やはり通学しませんから、新学期も科目を選択できず、やむなく退学手続きに出かけますと、学内は無人、再び卒業不要を心の支えに(ヘンな支え)まったく通学しないでいますと・・・以下、同じ夢を繰り返す。

今一つは

朝一番で「店」を出るのですが、電車は一向に動かず、必修の国語(←実際には国語という教科はなかった)は終わってしまい空しく帰宅、友人を経由して、外国人(!)の先生の言葉「授業に出席なさい」が届くのですが、一年次も二年次も三年も四年も出席できず、卒業式の歓声を聞きながら裏口で退学手続き。

大学時代、学生運動に誘われたことがあります。

麻雀は学生時代、高校時代の友人宅でやりましたが、必ず負けましたので渋々参加。大学の友人とは一度もやりませんでした。

学生運動は興味も関心もなかったです。労働組合は「店」を破壊する敵でしたから、匂いも寄せつけませんでしたが、学生運動は、学生がなぜ運動するのかよく解からず、活動する学生の社会性と行動力に劣等感を抱いていました。

労働組合に入ったのは?

入社後、労働組合に加入しないと社員になれないと言われたからです。組合役員に、就任させてはマズイ顔触れのあることは察していました。

組合に入って、組合への敵愾心(てきがいしん)がなかったことに気づきました。両親を脅(おびや)かす敵でしたから牙を剥いたのです。今も当時の「店」に戻れば、利益を損なう敵として対処します。本当に辛かったのは、組合大会の退屈さを我慢すること。

「店」時代は労働組合を敵視しながら、お勤めでは労働組合員であり続けることに、さらには組合員の義務を果たすことに、感性の矛盾はありませんでした。「随想 二重生活」を著わしてからは、考えの矛盾も解消しています。

皆さんの一重生活は、お勤めなり会社の経営でしょうか。ではもう一重の生活は? 二足の草鞋(わらじ)ではありませんよ。今の私には、労働組合運動も政治活動も、慈善も奉仕も職業生活の側。もう一面の生活は「表現」です。たまたまそれが文章でした。

 ※

社会に出てから二十年後、中町の店にOさんの退職通知が届きました。年賀状のやりとり以外、十年も音信不通でしたが長距離電話、退職理由を尋ねました。

「厭になってしまったのだよ」

我々の結婚式に招待した時、Oさんは出席を迷っていました。新入時は所属部課の先輩でしたが、すぐにOさんは異動、私との接点が消え、会社関係の招待客が訝(いぶか)ると思ったのでしょう。しかし結婚後の私の業務に、Oさんの出席はよい方へ影響したと考える以外、何も起こらなかったです。

退職後のOさんの進路は華麗でした。大よそ四半世紀ものサラリーマン生活から抜け、徹底して勉強なさったのでしょう、優秀な学生でも、簡単には進めない専門職に就かれたのです。転身の動機は、同じ会社当時の、Oさんのお母さまのご不幸と無縁ではありますまい。その折の想いを二十年も寝かせてから、具体化させたと理解しています。

JさんとOさんは、体躯も、資質も、考えも、行動も、趣味も酒量も違っていました。特に違ったのは飲み屋です。素面(しらふ)と痛飲時の違いを見極めるのが困難なOさんに、案内された最初が神田駅近く、一階は焼き鳥とビール、二階はウィスキーとアタリメの、女性が二の足を踏む飲み屋でした。

 ※

Oさんは、こちらが音を上げてしまうほど厳密で、着実に仕事をこなす一人でした。Oさんの社会性は相当早く芽生えたのではありますまいか。しかし私はOさんとは違う「感性」へ傾斜。やがて私の煮え切らなさが、Oさんとの間に溝を生んでいました。

流儀を学ばされ、その流儀で著わすのであれば、私は流儀を破壊します。逃げられる程度の関心であれば、さっさと逃げてしまいます。例えば文章表現は、まあ、腐れ縁ですから逃げ切れません。大切です。もしそこに、外の流儀が割り込んで来るのでしたら、あるいは学ばされるのでしたら、その流儀で描いた作品が最高の評価を得ましても、私は外の流儀を遣り過ごし自分の流儀で描きます。各自がそれぞれの文体で著わさないと、長続きしませんよコツコツは。それと

方法も目標も、暗さや硬さが苦手なんです。例えば「高校生の視野を広げ自立を促す学習」という言葉を目にしますと、息苦しくなります。 ○君! 今度の夏休み、一人で北海道を旅しないか。ナントカネットワークが家庭泊を提供するよ。自転車なら、ほとんどお金は要らない。一ヶ月、思う存分、走ってきなよ。

絵だってそうですよ。恩師と愛(まな)弟子? 窮屈ですね~。 ピカソとサバルテス! いいですね~。

 ※

バッタリ

新卒時は先輩社員が一人、教育係として世話を焼いてくれました。仕事が解からない時は「仕事の質問は、私ではなく命じられた上司にするのだよ」などと教えてもらい助かりました。

私の教育係はNさんでした。ご本人から聞いた話ではありませんが、Nさんの、すぐのご先祖は歴史上の人物とか。品位も、優雅な口調も、さもありなんと思われます。

部が「窓際」になった時、教育係が復活しました。いえ、お仕事ではなく競馬です。Nさんの競馬は、本物と噂されていましたので、私も本格的に学び、不安な一時期、動揺しないで済んだのです。そのNさんが本来の教育係だった頃

会社には、鎬(しのぎ)を削っている競争相手がありました。

仕事が終わりますと、Nさんはお仲間と飲みに出るのですが、誘ってくれますので私も二つ返事。そんなある日

会社の競争相手のお店に、出かけたことがあるのですよ。しかし一年生の私はルンルンで、Nさんが、私を制した理由が解かりませんでした。

少し離れた席で、営業部長のお一人が、支店長のお一人と視察なさっていたのですね。お二人は、笑顔など見せる訳がありません。まずかったと思いますよ、私の笑顔。

幸い、この時はお咎(とが)めはありませんでした。

 ※

私の十年は、営業の計画立案、商品化(新製品開発)、全国特売(キャンペーン)の立案、市場分析、需要予測でしたが、商品化と特売は短かったです。適性を欠いていました。嫌いではなかったのですが、私の感覚は現実離れしていましたので、自分の意見を持たなかったのです。

市場分析と計画の案作りは表裏一体です。部署名も体制も変わりましたが、新入時から新規事業に移るまで便利屋を全うしました。その便利屋が終わる頃、もう一つのバッタリを経験しました。

私の属していた部署には、読心術に長けた影の部隊がありました。秘書課の皆さんです。会議には、参加者と会議室が欠かせません。最大の悩みがソレ。ところが、憂鬱な顔で秘書課を訪れますと、私の顔を見ただけで「予定に入れておきましたよ」とか「会議室をとっておきましたよ」と告げてくれるのです。

ある時、秘書課に上がって行きますと、「飛行機とホテル、予約しておきましたよ」と告げられました。遠隔の地で、営業全部署と海外事業所の、責任者が全員集まる会議があり、私も事務局の一員として、原稿や資料作りに追われていました。

会議資料の完成は、会議前夜が相場ですから、上司と同じ飛行機と、主な出席者が宿泊するホテルを、私にも手配してくれたのです。助かりました。上司の確認を得るため、仮に神田のビジネスホテルから、品川や赤坂の国際ホテルを行き来して、資料を完成させるのは無理ですから。

完成した書類を上司に渡したのが会議当日の朝。シャワーを浴び、ホテルの喫茶店で飲んだ珈琲、美味しかったですね~。

ゆっくりは出来ません。部屋に戻って片付けを済ませ、すぐに会場へ出かけようと、エレベータが来るのを待ちました。扉が開き、出てきたお客さまの中に、海外事業を統括しているご重役! 笑顔で会釈。これが失敗でした。

会議が終わった翌朝、部長から「重役が宿泊するホテルに、社員が泊まった」ことが問題になったと告げられました。やはりお咎めはありませんでしたが、シマッタと思いましたね。目に隈(くま)のある、疲れ切った顔でしたら、察していただけた筈なんですが・・・。笑顔なんてうんざりですね。

 ※

繰り返しになりますが、私が就職活動を開始したのは、主な学生も、主な会社も内定が決まってからです。我が家は商家でしたので、無知とは気楽なもの、なんだ、先輩がおごってくれた珈琲は、人集めの方便だったのか、地域のエネルギー政策を説明してくれたのですが、勤め先の宣伝と思い込み、厭な顔して悪かったな~。

ゼミ以外は、講義に出る必要がなかったのですから、ひたすら「店」を手伝い、友人に会う機会もなく、就職情報は綺麗サッパリ蚊帳(かや)の外。

就職活動でオカシカッタのは、私の方ではないのかも。

その会社に応募する同窓の人数、お互いにわかっていました。是非入りたい!と願っていながら、落ちた同窓生もいました。会社訪問の際、説明していただいた人事担当者から、帰り際「面談した学生で、条件を尋ねなかった学生は初めて」と感激されました。勤めるのが不安でしたので、お勤めとはどういうものかを、根掘り葉掘り聞いただけです。

社長面接の際、志望動機を答えて曰く「これからの、文化的背景に関心があります」 勤める気概は、述べることができなかったのです。知らない世界を前にして、やる気を表明できるヒトは仕合わせです。

 ※

私が結婚した年齢は当時の平均です。結婚が「境」になって勤め方が変わりました。家庭を大切にしたのです。週末は必ず出歩きました。人生の相棒がいるのですから、毎日が楽しくて嬉しくて、まあ、よく外出しました。労働組合運動も、友人との奥多摩や奥武蔵の山歩きも「境」で終わり、窓際状態も「境」直前の一時期で終わり。新入時の先輩社員も、結婚のお祝いを頂いた担当役員も「境」で終わり。

新入時の担当役員は、社内で単独二位の役職でしたが、実際には部内のお仕事からも、全社の動きからも遠退いていました。

結婚のお祝いは置時計の煙草盆でしたが、手洗いも納戸も含め、十八畳のアパートに、置時計は置く場所がなかったです。もう一つのお祝いは、担当役員の名代で出かけたアメリカ研修旅行。有名大学の先生が引率。消費財大手の常務が団長。各社役員一人、あるいは名代の部長。

家庭に集中した結果、社内の目は気にならなくなりましたが、お勤めを続ける場合、微妙な立場に置かれていました。

媚(こ)びも追従(ついしょう)も通じません。出来が悪ければそれでお仕舞い。判断を下すのはお一人でした。

独創的で、魅力に溢れた経営者でした。母は私のお勤め時代、私の言葉の端々から、そう思っていたと話しています。落胆したのは、父だけではなかったのです。でも、お勤めは立場が大切。孤立感、深かったです。

是非!と話していた学生の気持ち、三十五年後に理解しました。

 ※

私の労働組合運動は、持ち回りの役員から始まりました。当初は情宣を担当。不活発な組合を盛り上げるため風刺を作文。それを読んだ上のほうから、休眠中の青年婦人部を盛り上げなさいと命じられました。

私の加入した労働組合は、会社の成長に追いつかず、中小本位の上部団体に属していたのですが、中小企業とは労働の実情があまりに異なり、双方の呼吸は合いませんでした。青年婦人部の掘り起こしも、上部団体の意向に従っただけです。大卒の事務職本位と、若者中心の現場本位とは、歩調が違って当然でしょう。

青年婦人部の役員は、入社年次の似通った大卒男子と高卒女子。青年婦人部でも社会情勢を反映、打ち合わせのたびに意見対立、悉く「異議あり」を発する部員には、入社試験の面接で、話した言葉を聞かせて欲しいと願ったほどです。

組合本体が警戒していた一団に所属、激しく自己主張、ジグザグの示威運動同様、掻き回すのが活動と思っている部員は男子にもいましたが、青年婦人部には「深入り」しなかったです。

そんな中、言葉少なに、水俣病の映画を上映したのがSさんです。やはり高卒の女子でしたが(当時の女子社員はほとんど高卒)その手際、参考になりました。

現代は発言する機会が豊富にあります。主婦も生徒も出演者も、娯楽番組でもインターネットでも、意見や評論が飛び交っています。その皆さんの一人一人が、Sさんの手際を見習ってくれたらどんなによいでしょう。自ら実施する課題を抱き、自ら努力する経験の中から、言葉が生まれるとよいですね。

新入社員当時、研修を終え、配属され、関西に出張した帰りに、同期生数人に案内され、繁華街を飲み歩いたことがあります。ざっくばらんで打ち解けました。自分でも「ふ~ん」でしたね。

「ふ~ん」とは、「関西は合わない」が思い込みだった溜め息。

勤めていた会社では、広告制作の部署と、製品デザインの部署が東西に分かれていたのですが、その一方の、関西所属の雰囲気が、好きでしたね~。

違いは仕事の性格? 解かりません。恐らく、関西のほうは、デザイナー一人一人のよい面が、十分に引き出されていたのでしょう。引き出されていた理由は、デザイナーのまとめ役の、資質と能力と意欲が、十分に生かされていたのでしょう。生かされていた理由は、魅力ある一人の下で直接に! であろうと今になって想っています。

場所も時間も、関係ないと思いますよ。超人も要りません。当事者が、資質や能力や実績に応じて、幾重にも組み立てる「暮らしの雛型」になっていました。

 ※

新入時の上司は係長、課長、部長(室長)です。当時の係長のお一人は定年退職されていますが、第一回の「橡の木の葉展」でお名前を発見。三十年振り。

部内独自の業務はやがて独立、経営全般に関わる業務は遠方の新設部門に吸収され、営業関連に絞られて行きました。

新入時から「境」まで関係した部署は、営業本部、事業所所轄の営業部(本部の業務も兼務)、支店、宣伝部、資材部、物流部、広報室など。「境」以降はデザイン室、研究所、生産部も関係。

当初は本部長がお二人でした。部も課も一つではありません。事務局ですから役員全員も加えますと、日常的に、何人いたのかなあ~、「アイツの仕事、アレで大丈夫かいな」と危ぶんでいた役職者。

Jさんの調整力は抜群でしたが、新規事業時代、Jさんに心酔していた私に、人事の役職経験者曰く「Jはなあ、評価が割れているのだよ」 その時の私の気持ちは「Jさんでもそうなんだ、俺、もう社内を歩けないや」

デザイン室に移りたかった! ですが、「参加資格」を欠いていました。

 ※

「境」以降の商品化時代、私より若かった方で、一緒に働いていたお一人が亡くなったことを、やはり「橡の木の葉展」で知りました。

Oさんのご友人Lさんは、私の在職中に亡くなっています。血液の難病を患い、血液型が一致した私は病院に出向き、腕から腕へと、直接輸血したことがあります。

Oさんは専門書の読書会も開催、会場にLさんのお住まいを利用、私もお邪魔しましたので、Lさんにも親しみを寄せていました。職場では、誰よりも厳しく躾(しつ)けられた先輩です。

Lさんは、私の弱さを見抜いていました。

亡くなる前にご担当された新製品も、会社の皆さんには協働の成果、Lさんのことは、記憶にもないでしょう。しかし時計の止まってしまった私は、今も店頭の製品を見ますと、Lさんの顔が浮かんできます。

事業所内の他の部署から、同じ血液型の私に声がかかり、事業所内のもう一人と連れ立って、就業中に出かけた時は、まだ幼いお子でした。別の難病。病室はガラス越し。

お仕事とは解っていますが、組合側の一人としては、快く思わない部署に所属。

その方から、頭を下げられた時は絶句しました。

家族! なんですね。

 ※

配属された職場で、最初に食べたお昼は、何だったのかな~?

昼食と夕食は、出勤日も食べるのが当たり前です。ただ、残業時の夕食はヒトによります。私は夕食抜き派。

昼食も夕食も、食前に少しでも食べますと、後で食物を受け付けない体質ですから、食べないほうが食べられるというヘンな事情。また夕食による中断は、残業の生産性を低下させ、帰り時間が遅くなります。

遠慮もあります。会社では先輩になってからも、「中町」では社員を食事に誘った時も、まあ、食べるのは控え目でしたね。会社関係だけでなく、友人宅でもカミサンの実家でも、幼い子らを伴い両親を訪ねた時もまず遠慮。両親だけは遠慮が遠慮でないことを知っていましたが、その他は招いたほうも招かれたほうも気まずくなりますので、私は適切な措置をとりました。

飲みましたね~。

早朝、一時間走りますと食欲が湧きます。

普通に生活している時は、種類も量もキチント食べます。今でも食欲は脆弱ですから、キチント食べる必要があるのです。赤ん坊時代の栄養失調が尾を引いている? さあ?

食べ切れない料理を盛った旅行番組、材料を無駄にしている料理番組、食事を粗末にしている娯楽番組を見ますと哀しくなります。買い食いの暮らしも侘しいです。

毎日食欲が湧いて、毎日食べられ、毎日「おいしかった」と言える暮らしは幸せなのですよ。当たり前? 歴史と地理、勉強し直して下さい。その幸せを大切に!

会議の日は非食の欲(?)が湧きました。会議の私のお弁当は、秘書課の女性に食べてもらいました。午後から始まる会議でも、お昼を抜いています。会議当日に食べますと、消化できなかったのです。会議とは、役員会議と、役員会議の議題を事前に検討する役職者会議です。それに比べますと、部内会議や関係部署との連絡会議は、息抜きか居眠り同然。

新入社当時は、平日の飲み仲間も休日の外出仲間も同期生でしたが、相手方の事業所に出張した折を除き、次第に同期生とは疎遠になり、同じ職場の先輩や上司に替わっていました。先輩には女子社員も含まれます。

 ※

お勤めは神田の「店」とは別世界でしたね。もしお勤めを知らなかったら、私は自分の文章を信頼することができなかったでしょう。ソレは勤めに関係ない? いえ、少しはマシ程度のお話ですが、社会を考える場合、是非ともお勤めの経験はお願いしたいです。該当するお仕事は、文筆業だけではないですよ。

最も驚いたのは役割分担の妙。

新卒時に配属された机は事務所内最前列。男女を組み合わせた教室坐り。正面は八階の窓。見通し不良。居眠りに不適。息遣いが伝わってくる至近距離は、女嫌いには正直迷惑。会社は、何を考えていたのでしょう。

社内旅行の参加は任意、私は専ら自宅待機。部内有志による日帰りや一泊旅行は積極参加、楽しかったですね~。

それ以前の旅行経験は

大学時代は、親御さんが九州出身の子と、親戚が名古屋の子の家庭泊を頼りに、高校時代の友人と九州を旅しています。その折も結石が発症、友人の佐賀の祖父母宅で、何日間も唸っていました。その間、同行者は遠慮なく九州を周遊。

やはり大学時代、大学の友人に誘われ、ユースホステルを利用して、北海道を旅しています。

高校時代はスキーに限り女嫌いを返上。大学では、出席日数が不足した体育の単位を取得するため、都内のスケート場通いと学内のスキー旅行に参加。不足した理由は、結石の鈍痛による体調不全。

中学時代は力作業、店頭販売、高校時代と大学時代は資料収集、量販店へ提出する企画書作り、中~大通して調整役など、バイト並みに働きましたので、旅行費用は、結婚して子が生まれるまで、自分の稼ぎで間に合いました。

会社を辞めて二十年以上も、私は「辞めた後ろめたさ」に悩まされています。辞めた当座は押しが強く、我も頑強でしたが、子育てを続け、多少考えるようになり、世渡りのヘタも認識してからは、お勤め時代のすべてが失敗のように思われてしまい、当時の記憶から逃げてしまう体たらく。

インターネットと、橡の木の葉展が契機でした。先輩や後輩のご来展、ありがたかったです。

会社でアドレスを取得しましたと、上の階で働いていた方から、四半世紀振りに頂いたお便り、嬉しかったです。

会社アドレスの電子メールには、「開封扱いですよ」のご注意を返信。

漸(ようや)く、勤めていた頃の自分と向き合うことができました。会社には、会社人間としての暮らしのほかに、会社に負っていながら、人間としての暮らしもあったのです。前者は、会社を辞めた瞬間に清算されますが、後者は、ヒトに属していることを学びました。

皆さんも、会社には、ヒトの暮らしもあることを、さらには、その家族の暮らしがあることを、忘れないで下さいね。

 ※

「家族」とは私の場合、関係と状態を意味します。

「結婚するよ」と両親に告げたのは、我々が結婚を決めたその晩です。翌朝、私は両親に「今晩か明日、連れて来ます」

二人とも喜んでくれましたが、上の子が小学校高学年に達してからは、私の家族は盆暮れだけ挨拶、泊まりがけもやめました。

父も死ぬまで喜んでいてくれたことを、その後の母の言葉から今の私は知っています。再び両親と私の家族が交流を始めたのは、父の死の数年前、下の子が高校に入ってからです。

 ※

A面は職業生活 ←依存と干渉と牽制→ B面は家族と表現

家族は内々の関係、表現は外交変則、多面、動態、作品本位 ← いずれも単に私の好み

新線の橋脚。蜩(ひぐらし)の斉唱。葱を積んだ軽トラック。甘い香り。枝豆の取り入れ。七月十八日(2002年)、朝四時半の風景。

 ※

その後、会社と同名の建物に移りましたが、新卒時に配属された事業所は、一階がお菓子屋さんの建物でした。徒歩で百貨店に出かける際、今も立ち寄ります。お菓子屋さんの表情は、三十五年前と変わりないです。二階以上は、綺麗サッパリ上書きされてしまい、私とは無関係。

お昼ご飯、一階のお菓子屋さんでも、食べたことがあるのですよ。ソボロご飯など簡単なお花見弁当。営業部の係長が、お汁粉を食べていたのを発見、みんなで「ウッソー!」 お菓子屋さんで食べたときも、女性社員は別でした。

A面の張りを欠いていました。今もそうです。一方、生活の不安は、塵(ちり)の山ほど溜め込みました。

当時も、A面には何もなかったです。冷たいと言われましたが、意欲も、感性も、俺がも、演技も抹殺、もっと冷たく頭脳に依拠、もっと厳しく相互に批判、すべきだったと反省しています。政(まつりごと)にも同じ想い。

 ※

当時は、女性社員が男性のように、バリバリ働ける土壌ではなかったです。

えっ! 機会は今も? 本当ですか? 信じられません。

そう言えば、言わなくても、転職の機会も不自由ですね~。私は、一所に十年が限度なんです。十年経ったら、別の世界に飛び出したい。ところが、我々の社会では落ちこぼれ、いえ、主体的には例外なんです。進取とか創造とか言いましても、職場を一所に限られますと、発想も判断も、凝り固まってしまいません? 昇進の条件に、転職経験を加えたらどうなんでしょう。感性の違い? 閉ざされた社会の個性? さあ。

高校時代は、女の子とスキーに出かけたのですよ。大学時代はダメでした。店の手伝い優先? いえ、手伝いに障るほど、スキーは本格的ではありません。学内には、見渡す限り、女の子がいなかったのです。

会社には女の子がいましたので、高校時代に里帰りできました。生憎、男の先輩にスキー好きが見当たらず、スキーのバス旅行は、女の子数人と同期の友人(男)が専らでした。スキー宿では雑魚寝も。

ヘンなのは今の方ですよ。はじめての海外旅行で、衝撃を受けた生活習慣が二つあります。一つは、「アリガトウ・失礼シマス」抜きでは旅行できなかったこと。日本語で足りました。もう一つは、鞄を足で動かすこと。

鞄を足で動かす習慣だけは、皆さん見事に我が物にされました。

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新卒から結婚する迄の数年間で、今でも「意味付け」できる思い出はOさんです。私は律儀と気ままが同居、コツコツと奔放が雑居、冷たさと「飛び出そう」が同時進行する性格ですが、Oさんは秀逸と不屈が同居、温厚と厳格が雑居、もし戦火に遇えば、誰の為に戦うかを認識、決して怯(ひる)まないであろう一人でしたので、畏敬が増すと同時に負担も深まり、私はある日「飛び出そう」

戦後という言葉、ほとんど見なくなりました。不思議だったのですよ、「戦後は終わった」という成句が、戦争経験者(当時は多くの大人がそう)から発せられるのが。

量は僅かでしたが、社会に出る迄に、読んだ書物は圧倒的に戦争絡みでした。日本文学だけでなく、サルトルなんかも全集を片端から。朝鮮戦争はアメリカの劇映画も観ました。異国には「戦争と平和」なんて古典もありましたでしょう。ゴットフリート・ベンの「二重生活」も。戦時中のピカソにも興味がありました。Oさんが開いた勉強会で、私が選んだ本は、太平洋戦争の専門書でした。

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社会に出て一、二年で、主体的に働くのは難しいと思いますよ。私は十年目でも難しかったです。特に新規事業は、計画段階で逡巡する無事の方が、失敗の責任を負わされるより魅力ですから、役職に関係なく立案段階で、事業の当事者を移籍(出向ではなく除籍)しないと、蟻が象を操る事態になりかねません。

終身雇用が崩れつつある(?)今も、転職の不自由を考えますと、状況がどの程度変化したか判りませんが、当時は「お勤めを全うする働き方」が一般でした。

新規事業だけでなく、分業と協働に依存、配分と再配分を要する職業生活そのものに、主体的に働く難しさがあると思います。ですが当時の私は、二重生活の、社会的意味合いだけでなく、個人の生活様式も、考えることが出来ませんでしたので、与えられた課題を、当たり前とも思わずにこなし、余暇は趣味に娯楽にと、そう、確かに充実していました。

俺は親父さんの子なんですよ
クリスマスの季節-2932-

らららラララめ~りか!



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