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2005-04-16

書くも描く同様「自然」なことでは?

この項の『 』内は、あるブログのコメント欄に書き込んだ感想です。

『はじめまして。書くことにつきまして少々。百年前からインターネットがありました場合、今頃は書くことそのものも、何を書くかにつきましても、表現活動としてですが、話題にさえならなかったと思います。現代に絵を描くその表現行為が、恐らく万人にとりまして「自然」なことのようにです。日記同様デッサン然り。私小説同様自画像然り。描いた絵は、一般的には見て欲しい筈です。書いた文章も、一般的には読んで欲しいのが「自然」なのでは? 前者は至極当然として社会に受け入れられています。では、後者はどうなのでしょう。インターネット以前は、ただ単に印刷媒体が高価で、かつ選別されてしまったために、書くことを何か特別のように考え勝ちです。あるいは記者や作家や学者など、ごく限られた人々の特権にさえなっていました。スポーツ同様、カラオケ同様、書くことの自然さを認識できる社会になって欲しいです。』

トラックバックについて


文字の表現者は名を伏せ、素顔を知られている者はさらに名前を変えて発表すべきと思っています。結果として執筆のつど、無名で出版しなければならないのですから、よいとされる書きものも、売れる保証はありません。

出版した後々まで、執筆者は素顔を現わすべきではないと思います。学問や報道や娯楽の書きものは別ですが、書いたことで得意を感じてしまう出版は、あるいは「もの書き」の看板を下げて人と交わる執筆態度は、私の考えている文字の表現に値しません。

絵画や楽曲では、表現者と作品の間に、一線を引くことができると思います。私もそうですが、混同していることが多々あります。しかし文字の表現は、どうしても作品と執筆者を同一視しがちです。これほど欺瞞にみちた作為は、人間界広しといえども、ほかに探すことは困難でしょう。

文字の表現も、作品とは似て非なる執筆者を、装丁の途次、きれいにぬぐい去ってしまう必要があります。しかし、私のメーリングリストでは実名を義務づけているため、この随想にも、表現に徹しきれない点があります。(注:ML休止後は筆名に復帰しました。)

随想 繊維問屋にて (5-3) 五六
クリスマスの季節-394-


過去、寡占媒体を利用したお一人お一人も、戦争については新聞や雑誌を待たずに語り掛けて欲しいです。ところが、自分のサイトを宣伝するため、著名な知識人の公式サイトを探しましたところ、限りなく無に近い現実に愕然(がくぜん)とさせられました。今の私は職場を一歩離れますと、音楽なしではいられません。昔、お酒なしでは暮らせなかったのとそっくりです。

らららラララめ~りか!


243. 好い加減? いえ、イイカゲン 2001/08/26 (日) 06:36

おはようございます。

No.242の書き込みはイイカゲンでした。お詫び・・・をイチイチしていますと、ごめんなさい、許して、失礼しました、お詫びします・・・の言葉が氾濫して、やがて本文を書けなくなってしまいます私の場合は。

最近の書き込みでも
中味→中身
大きくなるのでね。→大きくなるのですね。
みなん→みんな
等々、イチイチお詫びしていますと疲れてしまいます。

皆さんもお気づきでしょう、インターネットでの文章には訂正の概念が崩れていることを。日々、大量の言葉をインターネットで発信する場合はイチイチ正誤表など作ってられません。ところで、皆さんの話している日々の言葉は無謬ですか。日々の会話を点検していますか?

インターネットが一層浸透しますと、寡占媒体の報道にも影響が現われるかも知れません。一語一語の発言を点検して摘発していた「正義の訂正要求」が、単なる揚げ足とりに変わったりして。その寡占媒体自身、過去の膨大な活字は悉く無謬なんでしょうか。 (^^;

私の随想は大昔からそうだったのですが「表現は総身」という考えを貫いています。全部の随想がたった一冊なのですね。インターネットの個人サイトも、もし表現を試みらていられるのなら、誤字誤謬満載の総身になるのがホントウだと思いますよ。無謬の人には就いて行けません。現在は印刷媒体の「枷」から解放されたのですから、特に寡占媒体で知性とか権威とか称えられている人になればなるほど、インターネットで総身の表現を・・・なんて、凄い分量の弁解を書いてしまいました。

江戸川の河川敷、昨日も冠水していました。流れも濁って勢いがあります。利根川水系の雨、多かったのでしょう。河川敷の施設は暫く使えません。

草原に朝の食卓ML掲示板
ヘンなこと言わないで下さい
誤字も訂正しないで欲しい
どっちでもいいや


21 Dec 2000

この随想に副題を設けました。 「IT時代の終焉! 演出の泡がしぼむ時」。ホームページの見出しにはさらに「ようやく千年前に戻れます。」

折角訪れても、閉鎖されている個人サイトがあります。期待して訪れても、個人の見えない個人サイトもあります。折角の「媒体」がもったいないです。

媒体が寡占から解き放たれたのですから、既存の権益を頼りに存続していた組織や団体は死活問題でしょう。当然、試行錯誤や独創が飛び交い、媒体の新たな覇者も現われます。しかし

過去の紙の随想を、電子化してモニターで読んでもらっても、私自身はあまり嬉しくありません。年齢や境遇が変わったとき、改めて読んで欲しいと願い、拾い読み大いに結構、音楽とのナガラ読みさらに歓迎と念じていた手前、皆さんの本棚で埃との同居が正統と思い、自分の過去の随想にモニターの介入は微苦笑。

パソコンなしでは書く気になれません。書くことから派生したウェッブ・サイトは資料庫として欠かせません。ここまでは「大それた言葉」は要りませんでした。既成媒体を無視して表現を告知するとき、はじめて、ITが必要になりました。

22 Dec 2000

蜘蛛の巣のように張り巡らされたのは、情報ではなく網であり、内容ではなく手段です。私には媒体を経由して流される情報の、中身の革新性がわかりません。媒体の担い手が個人まで達したのですから(個人も事業者と同じ次元で告知できますから)モノにも情報にも、熾烈な販売競争が生まれます。技術者には千載一遇の好機ですが、今までの媒体事業者は既得権益を脅かされ、経済的不遇に連なる場合も少なくないと思います。激動の時代です。しかし、媒体の最大の利用客、つまり起業に無縁な一般個人は、新たな媒体が整備された後も、電気料、水道料、ガス代等に加え、接続費用やパソコン代を支払う以外、革新に値する果実は得られないのではありますまいか。テレビ時代の幕開けに吸い寄せられたあの興趣を、IT時代の今日、味わっている個人は何人いるのでしょう。

26 Dec 2000

民放の番組を駄物と思っている視聴者は多くはありますまい。しかし無償と思っている視聴者は少なくないと思います。そのような視聴者でも、番組の制作と放映に要する費用は広告主が負担、商品価格に含め回収している、程度の観念はあると思います。広告抜きでは商いになりますまい。その広告の媒体に、寡占の拘束が外れ、しかも最安値は無償、最高値でも訴求効果を測定できる方法で出稿可能な場合、質は高低さまざまですが、古着とは一味違った「安直な市場」が現われます。

今世紀までは、媒体の権威が視聴者を画一的に引き寄せましたが、新世紀は、情報の中身の優劣と特質が、無償で、細分化された視聴者を引き寄せ広告主を獲得できます。媒体に載せる情報の制作過程で、激しい競争が生まれます。

媒体の受け手から見れば、この競争は「無償の市場」の誕生に映ります。本職と素人の別なく表現欲は万人に共通しますから、氾濫する作品を前にして切り売りすれば、視聴者に相手にされなくなると思います。現在は、個人サイトの成功が、寡占媒体に採用される手段に留まっていますが、ITの二文字が色あせる頃には、栄枯盛衰は世の習い、既存の寡占媒体は、その機能の優位に特化、採算性の低下により、権威も低下すると思います。

随想 青い闇 -4-

15 May 2001

私の場合、最近の随想と以前の随想では足場が違っています。過去の随想は、出版社のAさんと印刷会社のSさん以外で、筆者を見知っていた人はいない筈です。父も私の随想を知らずに逝きました。母にも十冊の随想は渡していません。以前の手持ちは、資料と一緒に仕舞い込んでありますが、梱包を解いて渡しても、まず読めないと思います。理解力の不足ではありません。仕掛りの、下絵を感受する習慣がないからです。知性や感性に関係なく我々の社会では、仕掛りの「作品」を、羞じたり伏せたりする観念がはびこっています。しかし仕掛りの「作品」には、完成品では拭われてしまう情報が生きています。その情報を、作品として読み取るには表現力が必要です。仕掛りの「作品」は鑑賞する受け手にも、過程の野心と、分野は問いませんが、送り手の表現力に応じた足掻(あが)きを要求します。仕掛りも作品として感受できる社会では、鑑賞する側も傍観者ではいられません。

私は「存在の不条理」と書くことがあります。言葉の綾ではありません。わずかな言葉で説明できます。しかし「この絵は花瓶に生けたヒマワリです」とか「この絵は子どもの肖像画です」と記してどんな意味があるのでしょう。絵画は色と形が語ってくれます。文章は結論に至る過程に理解を委ねています。

随想 青い闇 -8-


 とちのきのはてん第三回





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