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2005-04-15

両親の長子の出産は築地のS病院です。神田の祖父母一家は駿河台のK病院にお世話になっていましたが、佐次郎さんに紹介されてからは、行きつけをS病院に換えています。佐吉さんの後援者には政財界の有力者もあり、その方々が利用していた関係で、佐次郎さんもS病院に親しみを抱いていました。

妊娠の診断時に出産を予約。父は予定日の十日前に母をS病院へ。診察後即入院、ではありません。出産は病気ではないので、母はS病院前の附属ホテルに宿泊。その間、鉄鋼の仕事で忙しかった父は見舞っていません。ホテルのロビーはお医者さまの休憩所でしたので、暇をもてあました母を、集まっていた若いお医者さまがお喋りで楽しませてくれました。

出産前夜の七時に入院。翌朝七時に出産。赤ん坊に識別標の腕輪をつけ、退院するまで母子別々。育児教育は至れり尽くせり。日曜のおやつのアイスクリームは、食べたさのあまり再入院を考えたほど。

病室は数人分相当の徒(だだ)っ広い個室。最高の贅沢は室内に備え付けの腰掛け式水洗便所。広い通路には人影がなく、看護婦さんは頻繁に訪れてくれましたが、夜には心細さも。

出産後に毎日、母の個室前の、ベッドも入る大型のエレベーターが、重々しい音を響かせて停まるのがきっかり三時。心待ちにしていた父の姿が、十秒の誤差もなく現われました。父の、赤ん坊の抱き方は初孫の時に見ています。両腕を前に突き出し、赤ん坊を受け取ると坐ったまま動かなかった。

祖母も一日置きに見舞っています。届けてくれた苺が忘れられない味。戦後に訴訟を起こし、両親と絶縁した祖母は亡くなる際(きわ)に、うわ言で初孫の名前を口にしています。

二週間後に退院。タクシーで神田の店の祖父母の居室へ。祖父は赤ん坊のまわりをウロウロソワソワ。Aさんも鯛のお刺身とお寿司持参で歓迎。夕刻、防空壕のある真間の住まいへ。

最初(?)の空襲の報に接して緊迫、予定日の二ヶ月前にS病院の予約を取り消し、ちゃんちゃんこを羽織った長子を祖母がおんぶ、三人で疎開先へ向かう沼津の車中で空襲警報、列車から退避。

疎開中の敗戦直前、火達磨になって落ちて行く米機を目撃。しかし、母が東京大空襲の惨禍を知ったのは戦後に祖父から。銀座の勤め先ビルと、神田の店の焼失を見届けた父は言葉少な。

クリスマスの季節-16-
風呂敷包みより軽かった
婚儀披露宴御席表


苺、好きですね~。

最後に床屋に行ったのは、確か二十年か三十年前です。着た切り雀の洗い髪でトボトボ歩くのですから、風采が上がらないこと夥(おだただ)しい。謂(い)わば雑踏に漂うプラタナスの落ち葉。それが昨今、風に圧(へ)し折られたイチョウの枯れ枝になっています。私のような人間が戦前に暮らしていたら、お玉ヶ池のザリガニの抜け殻で、知己を得る機会は絶無、ではなかったようです、井戸端や路地裏の社会でも。

関東大震災の際、曾祖母(祖父の母親)の実家近くの、大工さんにお世話になったのがご縁で、腕もよかったのですが、昭和二、三十年代の店や工場の建築は、この棟梁一家にお願いしました。折角のご縁も、お仕事を継がれた棟梁が、自宅前の通りで車に撥(は)ねられ亡くなってからは、ご家族の姿も見えなくなり、今はお住まい跡に鉄工所の看板が立っています。

神田には、父もお願いした電気工事店もあります。ここのご主人の親戚で、戦後の一時期、両親がお付き合いしたお一人が、某所天神様に近いお菓子の老舗のお嬢さまで、わざわざ手ずから頂いた葛餅(くずもち)に私は絶句、神田から自転車で買いに行こうと、繰り返し思っていました。

もうお一人は市川のS先生です。母と同い歳か一つ上。療養のため、低学年時代の小学校を、一年の半分は休んでしまった兄の勉強を補うため、電気工事屋さんに家庭教師の心当たりをお願いした、そのご紹介で、教育の要職にあったS先生とのお付き合いが始まりました。

神田に移ってからです、日曜毎に私が先生を訪れるようになったのは。先生のご専門は日本史で、とても役に・・・立ったのではなく、ほとんど何も理解できなかったです。講話を六十分も正坐して拝聴するのですから、眠たくなったり痺れたりもう散々。

お茶とお菓子が寛ぎの合図、痺れた足を解(ほぐ)して、ご夫婦の四方山(よもやま)話をきっかり二十分、聞くのが何より楽しみでした。奥さまは父の死(1999年夏)の一年後に逝去。

ご商売でもお勤めでも、生き残りを賭して働いている仕事場で、我が子を育てたいと思います? 茶の間は平日も日曜ですが、仕事場は日曜も平日です。兄には運動部が癒やしでしたが、両親の気持ちに過敏になっていた私には、日曜午前の、先生のお宅が癒やしでした。

五月のある日、帰り際に頂いたのが、底に葉を敷いて、苺を一杯に詰めた大きな木箱。蓋は新聞紙でしたから、脇に抱えて運ぶ訳にはいきません。二十分ほど歩いて、国電に乗り神田まで、どうやって持ち帰ったのでしょう。

今の我が家でも苺を植えたことがあります。放っておいても殖えましたので、「シメタ! ひと稼ぎできる」と思ったのですが、熟した実を摘まんだところ、地に接した先端から内側が綺麗に食べられてしまい、周囲に靴跡、いえ、銀色に光る侵入者の這い跡があるではないですか。薄緑色の実には、手(?)も触れないのですから憎らしい。

S先生の西隣り、住居と住居の間に(当時はいずれも平屋)四十坪ほどの空き地があり、久しく菜っ葉が植わっていましたが、ある年、畑全面に、畝(うね)も見えないほど葉が覆い、その畑から収穫したばかりの苺を頂いたのです。不揃いでも香りと味は天下一品、しかも心行くまで食べられました。以来、同じ味を四十五年も探しましたが、今どき売っている苺は真っ赤なのに、なんでああも白々しいのでしょう。


スペインを旅した際、バスが立ち寄った休憩所に巨大な苺が並び一行は早速試食、バスに戻ったときは、母も娘もご相伴に与っていました。

私が惹かれたのは畑です。舗装しただけの、矢鱈に広い駐車場を通り抜け、溝を越え、畑の隅で色づいた苺を発見、それまでの出来事の、慰めになってくれたのが食事に添えられたプディングとルーム・サービスの巨大な苺。心ホカホカ記念撮影。


※S先生は「橡の木の葉展」の初回から第三回まで、わざわざお一人で地下鉄に乗りご来展になり、その後、東北地方のご子息のお住まいに移られました。私は中学への進学祝いに、S先生から、ご親族(画家)の油絵「戦場ヶ原」(5号前後)を贈られ、今も大切に飾っています。

クリスマスの季節-06-
我が道を行く猫
橡の木の葉展 第三回
随想 橡の木の葉



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