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2005-04-06

諸行無常の響き

ブログ以前のブログ 1997年5月分
【その22】1997年5月1日

ホームページを自分で作ったりメーリングリストを主宰すると、なにか自分が偉くなったような気がします。決めるのも自分、方針を変更するのも、不都合な個所を削除するのも自分の好きになるのですから、私はさながら独裁者。

私は契約しているプロバイダに、何の義理も負い目もありません。また当然ながら、お金を払っているのは私の方であり、プロバイダからは一銭ももらってはいないので、プロバイダを変えるのは自由です。MLやホームページもすぐに転居させられますから、プロバイダに気を使う必要もありません。参加者の側も同様です。パソ通ファンもパソ通の会員外も、参加資格のある人は自由に参加できる、インターネットのMLとパソ通のフォーラムの違いの一つが、ここにあります。

いろいろなことができるようです「システムの管理人」は。例えば、相性の悪い発言者をやんわり締めつけるようなこともできるでしょうし、大量の参加者がいる場合は、自分を売り出す絶好のチャンスにもなるでしょう。もし中小の企業内システムであれば、情報を管理する特権を行使して、システムに無知な経営者を(パソコンの業界外で、コンピュータシステムに精通している経営者が多いとは思えません)システム担当者の利益になるようにコントロールすることさえ可能かも知れません。会社や社員の秘密情報は、見たくなくても見えてしまうことがあり、気にいらない上司や同僚に打撃を与え、それをシステムの事故に装うことも可能でしょう。もしそうだとすると、コンピュータシステムは最も非技術的な「良識と自制心」に、そのシステムの存在を委ねているように思えます。

金融機関や、各種営利団体や、同窓会組織に提供している我々の個人情報は、どのように管理され、その管理体制に対する監査は十分なのか、一抹の不安があります。

【その23】1997年5月2日

暇をみては編集中記を走り書きしていますが、いろいろおかしなことに気づくようになりました。例えばネチケットの尊重ですが、ネチケットを尊重できるほどの経験があれば苦労はしない、という点はその通りです。あるいは「自分で調べれば分かる」というその調べ方が分らないのですから、初心者が「調べる前に質問する」のは当然です。また「先に過去の投稿記録やFAQを見なさい」という対応も、初心者への配慮不足。MLには、同じ質問や同じ話題が繰り返されるのを嫌う傾向がありますが、繰り返される質問や話題は、疑問と不明と関心の、強さと広がりの証ですから、先に入会した会員には既知であっても、何度でも取り上げるのがMLのあるべき姿、と思うようになりました。

私のまわりもほとんど電子メールを使えません。これでは電話線のない場所に電話機を設置したのと同じです。パソコン入門のお手伝いは、結局、自分の利益にもなる訳です。何はともあれ、お気軽にどうぞ。

【その24】1997年5月3日

MLやフォーラムにはある種の催眠作用があるようです。パソコンそれ自体が目的になると、この催眠術にかかってしまい、素顔の物言いを忘れてしまいます。独立自尊、我が道を歩いてきた人生の達人が、自己の知識や経験や判断力に衣を着せ、「パソ通文化」に迎合するのは、まだ我々が、パソコンを手段として使いこなしていないその現れではありますまいか。

このMLでのパソコンは手段です。先ず通信の手段であり、次いで文章表現の手段であり、必要を再生させる手段です。創業の緊張を取り戻すための、完全燃焼の機会を得るための、何通りかの方法の一つがこのML、と大仰に構えておかないと、MLの存在自体が目的になりそうで心配です。

文章を書き、発表し、製本し、運がよければ頒布するお手伝い、を考えることも許されるでしょう。腰を据えてものを書く、ということは想像以上に集中力を要します。書く手段としてのパソコンの操作を、ひとり立ちできるまで援助するのも、特にこのMLの世代にあっては、忍耐と、時間と、励ましを必要とする遣り甲斐のある仕事です。また高年の起業家に対する忠告と助力の発言が、このMLでヤリトリされたとしても、管理人は鷹揚にして融通無碍(むげ)、鈍感にして我関知せず、必要こそが神様なり、ですから何も気にする必要はありますまい。

必要づくりのために参加する、または、既にある必要に利するために参加する、これが「パソ通文化」に染まることなく「ふつうの文化人」でいられる秘訣です。なお、このMLの発想を、もっとよい方法で実現できる機会がありましたら、是非、そちらへの参加をお奨めします。

働く意欲のある「にんげん」から必要をとりあげて、敬老もありますまい。

【その25~34】は省略

【その35】1997年5月14日

折角、神田界隈に来たのですから、秋葉原まで足を伸ばしませんか。その前に、JR総武線または都営浅草線の「浅草橋駅」で降りて「江戸通り」を蔵前方面へ歩きましょう。雛祭り、端午の節句、七夕、クリスマス、お正月などの、少なくとも数週間以上前がおすすめです。あの辺は「素人お断わり」の札がない限り、百円一個でも自由に買えます。なにしろ、きんきん綺羅綺羅きれいです。ツリーの装飾やしめ飾りも、数が必要な場合は結構な節約になります。但し、ツリー用のランプは電気製品なので秋葉原です。秋葉原デパートの並び、ガード下に密集している小物専門のお店を何店かあたれば、もっと満足できるかも知れません。

電気の秋葉原は昭和通り口ではなく電気街口なのでお気をつけ下さい。営団日比谷線の秋葉原駅は昭和通りに面しているので、多少歩く必要があります。

秋葉原も変わりました。この地の大型店が、郊外へ進出したことが原因でしょうか。大手スーパーの家電取り扱いの影響でしょうか。ともかく、家電からパソコンへ重心が移っているのは事実です。しかしパソコンも近年、投げ売り屋が、倒産などで少なくなり、本体の値段的な魅力は(新古品や過剰在庫の処分のために捨て値で販売する本体は)めっきり少なくなりました。

秋葉原の流通経路は素人にはよく分かりません。相場を電話一本で聞けるお店を発見できれば、家電はその買い方が一番安い、こともかつてはありましたが、この種の商売も、今一つ活気に欠けます。

因みに、家電の下取りサービスとは、流通業者が消費者にお金を支払って不要品を引き取るのではなく、消費者が流通業者にお金を支払って不要品を引き取ってもらうシステムです。家電の取引は、配送料も据付料もすべて別建て、それを販売店が政策上、下取り値引きサービスとか送料込みといった表現を用い、消費者の購買意欲を誘っている訳です。本来、下取り品のある購買者は、下取り品りのない購買者より、廃棄物を処理する費用を余計に負担すべきなのですが、現実は必ずしもそうなっているとは言えないようです。

尤も我々のことですから、下取りを有料表示に切り替えれば、不要品は家電業者ではなく、自治体のゴミ収集日に出したり、郊外の空き地や山林に捨てに行くのは目に見えています。つまり家電業界は、我々の垂れ流しを、未然に防いでくれているのです。しかし、インターネット通販が盛んになるとどうなるでしょう。送料などの「こまごました費用」は別建てになりますか? 不要品の引き取りにもお金がかかるとなると、業者も消費者も、そこには触れない方が賢明です。ますます自治体のゴミ集収日が賑わいます----(電気街の裏手から上野方面へ、ガード下の両サイドを探検すると、新たな発見があるかも? 但し、車の出入りにはくれぐれもご注意を)。

パソコンの本体は、ソフトの代理店で値切った方が安い場合もあるようです。ソフトの代理店はハードで儲ける訳ではないので、頼み込めば、政策的な価格があっても不思議はありますまい。

パソコンの周辺機器はやはり「秋葉原」です。問題はどこのお店が一番安いか、ですが、仮に超特価の大目玉でも、意外や意外、大型店も場末店もどこに行ってもまったく同じ値段、ということがあります。反対に周辺機器のある種のモノは、常に他店より安く値づけしているお店もあるようです。但し、目抜きの大型店より場末の小型店の方が安いだろう、と考えているのでしたらそれは「予断」です。そういう場合もあり、そうでない場合もありますから、実際に確かめる必要があります。

編集中記は散歩者の夢想MLのホームページの一部です。つまりいわゆる中高年の初心者を想定して書いています。念のため。

中古のパソコンは私は、秋葉原であってもなくても、中古専門のお店では買いません。もし、あなたが有力者であるのなら、「モト」から直接、中古を流してもらうのがよいでしょう。しかし我々のほとんどは有力者ではないのでこれは無理、となると内容に魅力のある中古は高すぎるように思われます。個人同士で、自分のパソコンを売買するケースも見かけますが、それにも食指が動きません。

中古は「もらう」ことをお勧めします。高年になるほど「もらう」ことに抵抗を感じる方が多くなりますが、マニアの手元には、処分に困っているパソコンの1台や2台はあるものですから、人助けと思って、遠慮なくもらうべきです。ついでにキーの練習ソフトと、ワープロと、通信ソフトとモデムもつけてもらい、初歩の初歩程度は教えてもらうようにして下さい。その際、今まで書物で勉強してきたパソコンの知識は一度捨て、また「うぃんどうず」だの「色つき画面」は一切不問に付して、電子メールを扱えるだけで感激し感謝する必要があると思います(使わなくなったパソコンは、初心者に積極的に贈呈し、ついでに、相手が電子メールを一人で操作できるまで、援助してはいかがですか)。

少しパソコンに慣れてきたら、今度は新品を探すのもよいでしょう。しかし、買ってしまえば下調べの楽しみがなくなります。また滅多にないチャンスです。我々にとっては特に大切なパソコンです。簡単に使い捨てにするつもりはありません。となると、秋葉原の主なお店を片端から訪問し、同じ事を繰り返し聞いてまわるのがよいと思います。その際、書物で得た知識を延々と披瀝(ひれき)して、店員を辟易(へきえき)させる初心者がおりますが、それでは親身なアドバイスは得られません。最初は質問の方法さえ分からなくても、店を変え曜日を変え、繰り返し繰り返し尋ねることで、やがては目処(めど)もついてくる----のではないかと思います。

【その36】1997年5月15日

電気街の地名は外神田、その一角に万世橋警察署、神田川を渡ると交通博物館、近くに「肉の万世」、お孫さん連れにはこちらの方が喜ばれます。

電気街と山の手線の間に広い駐車場があります。秋葉原駅の上野方面のホームに立つとよく分かりますが、これが神田市場の跡地です。秋葉原のもう一つの顔は、青果を山積みにした早朝のトラックでしたが、その残像も次第に薄れていきます。

神田全体を見守るように高台に位置するのが神田明神、本郷通りを少し上がった右手にあります。今日は明神様の例大祭、しかし陰祭りとかで、いわゆる神田祭りは平成11年だそうです(私は母方の祖父母がともに浅草の出身で足袋屋を営み、その後神田に移ったので、父と母は神田明神で結婚式をあげ、兄弟も私自信もお宮参りは神田明神だったとか。しかし、父の郷里で生まれた私については、肝腎な本人に覚えがなく、真偽のほどは未だに不明です)。

(13日20時より15日早朝現在、So-netでメール配送の障害が発生、今も散発的に一部のメールが届くだけで、有料のメールなど大部分のメールは届きません。以前、別のプロバイダで、サーバの障害によるメール滅失を体験させられましたが、今回は大量の未読メールが失われる、その覚悟だけは免れそうです----。このような時はひたすら人生のむなしさを悟り、人の心の移ろいやすさに涙し、諸行無常の響きに耳を傾け、騒がず、高僧の境地で、テメ-、フテーヤローダ、なんてことは決して書かずに、諦観これあるのみです)。

【その37~38】は省略

【その39】1997年5月18日

子どもの情景を観察する時、また昔の記憶を辿るとき、自分の気持ちも子どもに戻っていることがあります。そのような折、外からみる子どもは「幼い」「稚拙」「あどけない」といった印象を受けますが、実際の心の中は幼くもなく稚拙でもなく、我々大人と同様に高度な、といったら語弊がありますが、子どもは大人と同じ性能で感応し思索している、と思うことがあります。子どもの考えは幼くもなく稚拙でもない、子どもの想いは「思索の原形」であり「感受性の基本」である。子どもの頃に想いを馳せている自分こそ「本来の自分」であった、のではありませんか。

我々は青年や中年には見えないことが見え、青年や中年では考えられないことが考えられる、そのような立場にあると思います。我々には、人々の表情を落ち着いて観察する余裕があります。その見ることのできる一つに子どもの顔があります。潮が引くように引いていきます。子どもの顔から子どもの表情が引きはじめている、以前は、高校卒業の頃まで見ることのできた子どもの表情が中学まで後退し、最近は小学生まで潮の引く現象が現れている、子どもが子どもの想いを飛び越して、つまり基本の形成を抜きにして、応用の次元で感応している?

生活のために職場を探す高年者の人生は、第二ではなく、第一の人生そのものです。これからは、稼がなくては食えない高年者が増えるでしょう。高年者の失業は失業者本人だけの問題ではなく、世代を共にする我々の、第一の人生の課題であると思います。しかし今は「第二の人生」について。

我々の第一の人生が、子どもの頃の自分の想いに照らして、十分に納得がいくのなら問題はないのですが、不徳のいたすところとはいえ、子どもの頃の想念から審判すると、私の第一の人生は、特に職業生活は、お世辞にも満足のいく内容ではなかったように思われます。

充実感はありました。しかし今は、個人が自分の職業に満足した・しないの話ではありません。自分の子どもの頃の「基本」に照らして、果たして自分の第一の人生に恥ずるところがなかったか。あるいは心ならずも「状況」や「環境」に屈して、「原形」とは異なる選択をし決定をしてきた、その経済活動の総合が、未来の子どもの想念を索漠なものに変えつつある、という懸念を打ち消すことができますか。

子どもの私が高年の私に語りかけます。

会社は人が生きるためにあるのです。ではなぜ会社は、人を辞めさせてもうけを増やし、人を辞めさせた人が、辞めさせられた人の何倍ものお金を得られるのですか。人をより多く雇った会社がほめられ、人を辞めさせてもうけを増やした会社が罰せられる、これがほんとうではなかったのですか。

なぜある人は、たった1年で、ふつうの人の百年分や千年分もかせぐことができるのですか。どんな人でも会社や放送局がなかったら、人々の協力と援助がなかったら、その働きはお金にはならなかったでしょう。一人でもうけた百年分千年分のかせぎとは、一分一厘に至るまで、人々の分業と協働に負っているのです。ではなぜ、直接であろうと間接であろうと、一緒に働いている無数の人々が食うや食わずなのに、わずか1年分の働きだけで、百年分千年分ものお金を得られる人がいるのですか。

幼獣は信頼に値します。成獣は食うために闘います。成獣を牽制し制御する「法」が「自然」です。自己を律するのに、「外部の法」を清算し「自己の法」を充てるのは、自家撞着に陥っています。あるいは大人は、神にでもなるつもりでしょうか。我々は、自己を神格化した愚行の歴史を知り尽くしている筈ですが、その我々自身が、自らを律する「法」を書き換えているのです。

【その40~】は省略。

……編集中記より
ブログ以前のブログ 97-04



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