冥王星
言い出しっぺは父でした。菅野の改装は、前に触れた棟梁の片腕で、筋張った若者が請け負ってくれました。私も憶えています。付き纏って邪魔したのかも知れません。
F先生(家元の顧問)は既に引退され、菅野の我が家以外では亡くなるまで教えていません。本八幡の駅前でお花を買って来られ、お茶の練習後、母と一緒に活けていました。水仙の扱い方まで記憶しています。興味に駆られ、やはり邪魔したのかも知れません。
驚いたことがあります。お茶の教室は月に一度、それを数年(昭和20年代後半)続けましたが、練習が終わると祖母(母の母)が姿を現わし、先生とお菓子を食べていたのです。F先生は、親しかった祖母(二人は同い歳)と一緒に菅野に通い、稽古が終わるまで祖母は別室で待っていました。しかし、祖母の姿は私の記憶から抜け落ちています。

写真は1952年、護国寺。家元の茶会の、F先生ご担当の茶席。中央二人の、向かって右がF先生、左が祖母。
菅野の我が家では、作法の複雑な「濃い茶」の席は限られていました。オマケ(私)を勘定に入れませんと、F先生と母と父と、同業者のお子で美大出のお嬢さまだけ。お嬢さまは最近まで年に一度、編み物の催しで母と会っています。
父は熱心な生徒で、飛び級(?)で家元のお許しを得てはどうかとすすめられましたが、状況は大きく変わり、再びお点前を試みることはなかったです。
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お稽古の時間外も茶室は茶室です。折々、父は鉄瓶のお湯で薄茶を楽しんでいました。富士出身の父は、さぞや濃く苦いお茶で育ったのでしょう。抹茶を甘く感じていたのかも知れません。そんな時は私も茶筅で泡立てる真似を楽しみ、半世紀後の、濃く苦いお茶をガブ飲みする素養を磨いていました。但し、父と子がいかに寛いでも茶室は茶室です。誰に見せるのでもありませんが、父の居住まいは揺るがなかったです。私も心地よい緊張を感じていました。
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菅野では薄茶を習った人がもう一人います。後述の女の子です。
昭和26年(1951年)の晩秋、越後から杜氏(とうじ)のAさんに連れられ、中卒男女が神田の店に着きました。男の子はAさんが「車中あまりに気が利かず、勤めは無理なので連れて帰ります」と申し出たのを父が制して採用、営業ではなく生産に振り向け半世紀と三ヶ月、空洞化による職種変更も乗り越え勤めを全うしました。社内結婚。一戸建ての持ち家。男女二人のお子も子に恵まれています。今春、病気のため職を辞しました。※追記:2003年1月、先立たれた奥様と同じ病気で逝去。ご夫婦とも、両親がすすめた築地の病院で入院と治療を続けていました。
当時は稲作が済んで雪の季節になりますと、神田の店でも結婚前の女性を「出稼ぎ」として受け入れましたので、都内民間の斡旋所を介して知ったAさんが定期的に越後から人を紹介、出稼ぎが減っても杜氏としての信用が効いたのでしょう、昭和30年代には中学新卒の女子を毎年五人、工場女子寮の住込み工員として紹介し続けてくれました。
Aさんが紹介した住込み工員の中に、一人だけ高校新卒者が入っています。出産が無理な体という理由で地方では雇い手がなかったのです。しかし母が築地の病院をすすめ、工場に勤務する傍ら週に一日を半年間、埼玉県から築地に通い治療を続け完治、仕事がよくできましたので神田の事務へ職種変更、その後、若い番頭のBさんとご結婚、社宅入居中に男女をご出産、お子の一人は後年、名門私立大学へ進学、Bさんは独立、新宿から二駅か三駅の繁華街で小売店を開業、今もご商売に励まれていると思います。
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Aさんが昭和26年に連れてきた男女の、女の子は出稼ぎでした。当時の越後の人は、誰もが力持ちだったのでしょう、あまりに気が利かなかった男の子も、小さい体に似合わず、綿布の原反を易々と持ち上げ、裁断の手助けには打って付けでした。大きな体の女の子は男の子以上に怪力の持ち主で、東京に「大雪」が降った朝、店の周囲の雪を一人で掻いてしまい、男の店員は面目がなかったそうです。女の子は冬になると繰り返し上京、店で働きましたが、やがて地元でご結婚、音信不通に・・・なったのではなく、前述の男の子の結婚式では我が子の手を引いて参列、何年か前にお亡くなりになるまで、父の元にお便りが届いていました。因みに
男の子も職場結婚です。お相手はAさんが連れてきた女子寮の住込み工員。同郷です。奥さまの晩年は、やはり母が築地の病院をすすめ、父の晩年の入院棟の、同様の個室で逝去。
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怪力の女の子が、最初の出稼ぎを終え郷里に戻り、紹介してくれたのが菅野の初代のお手伝いさんです。娘さんは薄茶だけでなく、お花もお習字も一緒でした。殊のほか気立てがよく、父も気に入り、母が私に、回想の「同意」を求めて度々耳にするお名前ですが、当時は殊のほか悪餓鬼だった私には、残念ながら面影が浮かびません。
先の男の子は幼かったので、当初は我が家の旅行に連れて行ったり、どちらが付き添いだったかは別としまして、私の療養にも同行しました。お手伝いの娘さんは実利を選び、お料理も母を教授に個人授業。ご結婚が決まり帰郷する際は、涙ボロボロだったそうです。お子にも恵まれ、今もご健勝の筈。
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菅野では一度だけ懐石も。亭主もお料理も母が請け負い、私もおこぼれを期待しました。でも、嗚呼無情! 完全に締め出され茫然自失、今もって口惜(くちお)しい。
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菅野時代の我が家では、なくはないのですが、雪の記憶は曖昧です。
小学校の雪の記憶は鮮明です。
一つは、運動場の松の根元の、粘土と霜柱と残雪の斜面。
斜面の幅は一メートルほどでしたが、誰が工夫したのでしょう、孟宗竹の破片を靴に括りつけ、滑っては遊んだのが小三か小四の冬です。打ち身にすり傷に泥汚れが、今もこびりついて剥がれません。もう一つは
小三の冬です。小四のセンセは苦手でしたが、小三と小五の先生には、今までほとんど触れていません。
今もよく解らないのです。後年、母が日本橋の百貨店で、菅野時代の保護者と出合った際、小六の春に転校した私の最終進学先を、先生が知っていたと教えられました。確かに小四のセンセとは違っていました。
先生は若かったです。眩しくさえ見えました。小五の時は、出かけたのはバラバラでしたが、多くの級友がお宅にもお邪魔しました。母は学校行事もいくつか請け負い、その延長だったのでしょう、私も出かけましたが、教室で怯えていた頃とは違い、観察する余裕が生まれ、先生のお宅で募った想いは小三の雪の翌日。
朝礼に使われた校庭の南端は生垣で、植え込みの隙間から抜け出すと細い水溜りがあり、生徒の悪餓鬼一派は、生きたアカガエルを剥(む)いて糸で垂らした! 蛇を誘(おび)き出す囮だったのです。
水溜りの向こうは土を盛った畑で、雪の翌日、授業の一つが流れ、雪原で遊んでよいことになり、まあ、教室の外は自由でしたので天にも昇る心地。教室を飛び出す前の先生の言葉「畑の持ち主の許可を得ました」なんてのも憶えています。
先ずは走りまわり雪合戦に興じていました。次いで人形だか怪獣だかを作ろうというクラスの意向が伝わり、力仕事を率先する気質が働き、精だして雪を転がし、像が仕上がったときは水星でしたが、互いに労をねぎらい、現われた先生に誉められ、歓声を上げ、先生に抱きつき、先生を奪い合う時分には、金星ではなく、火星でも木星でも土星でもなく、天王星でも海王星でもなく、冥界、いえ冥王星で佇(たたず)んでいる我が身に、侘(わ)びしかったですね~、秀才や英才を仰ぎ見ながら。
ところが、彗星が輝いていたのです。あの子と並んだら、秀才なんか宇宙の塵、英才なんか闇の暗黒、私には銀河にも宇宙にも思えた「学園近くの、大きな門構えの女の子」が、微笑みながら立っていたのも冥界、いえ、冥王星でした。
女の子を見かけたのはあの時が最後です。先生のお宅では、冥王星が恋しくてなりませんでした。
一人一人が自らの軌道で、輝いていると嬉しいですね。ところで、今からどこへ行くの? 金髪に染めに行く、サウナで贅肉を落とす、全身美容の泥を塗る! オヤ、マア。
……クリスマスの季節-10-より
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