関東ムラは関係ありません
今朝(2003年12月4日)は川面から霧。走路途中の真っくら闇も、あと僅(わず)かで消える運命。
児童公園と我が家の間は、宅地何区画相当の畑です。ご主人が亡くなって作付け面積が減っています。我が家が越してきてから季節の折々、小母さんからお野菜をいただきます。我が家が出払っている時は、簡単に出入りできる我が家の門の奥に積んであります。ご挨拶も済んで、垣根越しにお話もしましたが、はじめてのお野菜がソウでしたので、カミサンも私も驚いた記憶があります。
カミサンはいただいたお野菜を、必要に応じて洗ったり虫を除き、小分けにして、畑に接しているご近所に配ります。形と量も、お配りするお野菜を優先します。
お野菜は、近所の農家の小父さんも休日に手押し車で売りに来ます。呼び鈴を長~~く数回押すのが合図。やはり昔も今も。お仲間から仕入れたお野菜も積んでいます。球根や細根のお花は裸のまま。
小母さんは新線新駅へかけて何ヶ所か耕地をお持ち。小父さんも同じ方面にお住まいですから、お二人とも今は煩(わずら)わしい思いでしょう。土地がらみは暮らしに響きます。金銭もですが、精神的にも負担になります。穏やかで落ち着いた農家の暮らしを、崩されてしまうこともあるのですよ。
沃野は、育(はぐく)み復するのが国際社会の責務では……
走り終わりますと、我が家の隣りの畑の前で、手足と首を伸ばします。ロクロ首を反(そ)らしますと満天に☆★☆☆。★は暗黒星団かブラックホール。
子らが幼かった頃、雲一つない休日の午後、陽に輝く点を、児童公園の遥(はる)か頭上で目撃しました。
飛行機雲がなかったこと、まったく音が聞こえなかったこと、一直線に淀みなく移動していたことから人工衛星と推断。歓声をあげ手を振りました。←手は下げていたかも。
伸びた首を戻そうとしたとき、北北西の地平近くで微細粒の星を発見。煌(きらめ)きが強かったのです。
動いていない? 動いている? 動いていない? やはり動いている!などと驚くまでもなく、聞こえると言われても聞こえないと言われても声が邪魔になるほど微(かす)かに響き、やがて赤味が加わり飛行機と断定。早朝の夏は青空に機影。なぜか向きは冬と反対。
住環境のコレカラを……、これから何世紀も続く基盤の改造を、誰がいつ、どのようにして決めたのですか。
議会? 選挙? そうですか。皆さんは、数世紀後の感性も代議できるのですね。よろしければ、その論拠なり観念なりを開示して欲しい。史的検証の経緯と、議論の過程も教えて欲しい。
地方自治? 地方分権? 壇上で地方の政(まつりごと)に携わるヒトビトは、恐らく涙国では一人残らず言葉がお上手。しかし私は、ご自身であれ応援であれ、選挙運動期間を除き、暮らしの足許を具(つぶさ)に見てまわり、住環境数世紀にわたるご自身の世界像を(←職と住環境は暮らしの基本)提示している人格を知らないのですよ。
数世紀とは荒唐無稽? そ~かなあ~。風土資本を一瞬で根絶やしにして、これからの三百年五百年を、知らん顔していられる涙国の政治のほうが、破天荒な根なし草、でなければ前代未聞の自惚れ(うぬぼれ)では。
この項は二日の夜、カタカタ叩いた稿が原(モト)です。折々の文章は、折々書き込んだ日付と画像のファイル名から、読み返すとき必要な掲載時期が判るようになっています。今は寡占媒体が「島嶼のこれから」について真剣に報道しています。以下はその報道についての感想。
決定や判断を説くその多くに、欠けている何かが感じられ痛みを覚えるのですよ。采配者・壇上の指摘者・壇上の評論者・壇上の感想者(いずれも職業として意見を述べる立場)は、なぜ自ら現場に立とうとしないのでしょう。現場で過ごし、現場で情況を見定めないのでしょう。危険は当たり前です。過去の大戦下、島嶼のヒト一人一人は、のんびり暮らした訳ではないのです。政も報道も前提は現場。現場で暮らす親子の気持ち。
風土美さえ、現場抜きで根絶やしにする社会が、二十一世紀の今も在るのですね。
お正月は肉とネギを買って、濃町駅から団地の友人宅へ。
外苑をクラスの子(娘さん)と、スキー・バスの予定を詰めながら友人宅へ向かう途中、学生に冷やかされたことも。
どちらも高校時代、つまり四十年以上前、外苑はもっと素朴で自由でした。
新線の話は昔から聞いていましたが、実際に建設されるとは思わなかったです。五年ほど前から、田畑や山林の買い上げが始まって知ったのです。それ以前にも、林を畑へ変えておくなど農家や地主は個別に動いていたようです。私の所は宅地なので買い上げではなく換地でした。やがてこの家も動かさなければなりません。新駅一帯からあなたの住まいまでは、神社や墓地を除いて、林も田畑もほとんど何も残らないですよ。
以上は、県の企業庁が造成している一角で、その地に移って二十五年暮らしてきた会社員の話です。三十日(2003年11月)の今日(雨のち曇り)、色づいた林の写真を撮っている時、玄関から出てきて話してくれました。年明けには、再び造成と道路の建設が始まるそうです。自治会報の計画図を見ましても、ほんの一部の緑を除き、当地の自然は根絶やしになるのを悟りました。秋の緑地の写真は今年が最後かも。
秋葉原から24~27キロ圏のさらに奥へは、行けば行くほど緑が広がっている訳ではないのですよ。県内の旧新線沿線は、立錐の余地もないのですか。島嶼の人口が増加するとも聞いていません。安らぐにも環境上も、高い優先順序で自然が大切なのでは? 我々の社会は、どこまで風土美を破壊すれば足りるのでしょう。
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初期の随想には、冷戦、偶発戦争、核の冬についての想いも記してあります。トキの祈りのもう一つの主題でした。その折に、現実的希望を見出したのが経済です。自己の財貨と権益を自ら破壊することは誰もしません。経済活動で相互に依存関係を深めれば、相克も次第にほぐれるであろうと今でも思っています。現場の親子には経済活動が、行使される武力より高処(たかみ)に位置します。
花の美しさも、美術作品も風土の美も、対象の属性はほんの一部、「より大切な美」は感受する側の営為です。
辺境の凍土や荒野に単身赴任してみますと、関東平野の原風景がいかにありがたいか、沃野を根絶やしにする市街化がいかに都蛮(ヤバン)であるか、解るかもしれません。解ったときは手後れです。東京圏は、凍土より固く荒野より殺風景。伴侶は疾(と)うに愛想を尽かし、座卓に残されたのは離縁状一通限り。それも古すぎて、紙がボロボロ崩れます。
風土の「より大切な美」は、風土を壁に掛けるだけでは現われません。風土資本が風化する所以(ゆえん)は、家庭資本が蓄積を阻(はば)まれ、家庭の土壌も覆(くつがえ)されてしまう労働事情と根は同じかも。
家庭も風土もその美は、特に家庭の「何よりも大切な美」は、家庭や風土が存在するだけでは足りません。足りないのに気づいていないのでしょうか。だからなのでしょう、風土の沃野を、異国の風車や無国籍の公園に差し換えて綺麗と感じていられるのは。あるいは単身赴任を強いながら、先進と信じていられるのは。
単身赴任は家庭性に反しています。転職の巨大市場育成に手を拱(こまね)く産業社会は人間性に背いています。議員や公務員は、労働事情の後進性に、恥ずかしさのあまり、国際社会に顔向けできないと思うのですが、そうではなさそうなのがとても不思議。
コッカに委ねれば解けるという幻想だけが、不幸を刻んだ訳ではなさそうです。私有と公有の通念にも誤りがありました。公有と私有は対立概念? 公有も、司る実態は機関・組織です。私感覚を有する具体的ヒトが、所有者の実質を行使します。
短期でも長期でもモノを公有化して、公有物の実質をヒト(私感覚)に託すと、ドーシヨーもなくなるのでは? 新線開発でも、公が出資するのはなぜでしょう?
公有なのに、庶民が利用できない施設が無数にあります。公有なのに、庶民の暮らし感覚とかけ離れ、お金が遣われる施設も無数にあります。ナノニは間違いでした。国や自治体が出資や私有するナニカニで、専有状態にある場合は、庶民の暮らし感覚が立ち入るのは難しいのでは? 占有の主は自助が明らかなカイシャやコジン……
占有と専有は違うのですね。もしオレガとお思いでしたら、一人で起業し、一人で儲(もう)け、一人で食べて下さい。地球の地表では、何よりも言葉を使わなければ暮らせません。言葉には無償の共有権が確立していますので、誰一人として言葉への感謝抜きで、オレガを誇ることはできません。他者のお蔭は分業も同じ。学問も技術も媒体もそう。再配分に、私有者の表現力が問われています。
近年、私は飛ぶことができるとも書きました。今朝は走る勢いに乗じて、関東ムラから舞い上がってみました。驚きました。涙国は人材最貧国だったのですね。一億何千万人ものヒトが暮らしているのに、壇上がたった一つしかないのですから。暮らしの政を、ほんの一握りが采配して競争がないのです。暮らし部分の政は、立法も司法も行政もムラ単位で独立、互いに美を競って欲しいです。
満開の桜樹の下で……
幼児が遊ぶムラは何処(いずこ)?
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風土資本の荒廃と家庭資本の貧困は、島嶼(とうしょ)津々浦々
金太郎飴……
今朝(2003年11月28日)は曇り。
地方分権も地方兼権も市町村合併もやめて欲しいです。分権を言うのでしたら道州制も同じでしょう。金太郎飴を分断するのは十か五十か」の話ではないと思います。金太郎飴を繋(つな)ぐのは二市か三町か」の話でもないです。一つがよいです。解りやすさも透明性もお金もそう。
群雄割拠する利得も、領主の権限を強化する庶民の利益も、よく解らないまま進められて行く地方分権が不安です。庶民が自らの暮らしの土壌を、十分に議論し、理解した上で選んだ進路なのですか? 相変わらず壇上からのお仕着せ?
大小無数の天守閣と櫓(やぐら)が聳(そび)え、辻々の関所でナントカ税カントカ税を徴収され、庶民が養うのは島嶼の隅々まで浸透した伏魔殿では、学生や生徒がカイシャインや自営業を見限り、教師や役人を目指すのも無理ありません。
皆さんのムラの上空に舞い上がって、村と町と市と区と県を数えて下さい。次に櫓と職員と議員の数を数え、その維持に要する費用と、働く場所の快適度と、暮らしの水準を積み上げ、カイシャイン家庭や自営業家庭の暮らしと比較して下さい。試算する前に、内容を理解する前に、肝腎の情報の所在が判らないかも。働けど働けど、還暦から何年間は職がなく食べずに暮らし、幸い職に恵まれましても、賃金を最低水準に削られ、官も財もそれを承知で……。涙国は、議員さまとお役人さまと先生さまと社長さまだけで暮らせばよいと思います。
廃県置ソン……
暮らしの場では、感受し、理解し、参画し、築くのは足許一つが限度だと思います。新聞も番組も、寡占媒体が世界中の情報を日夜何千何万と流す中で、隣りムラがどうしたこうしたは関係ないです。足許の暮らし部分に必要なのは各々のムラ一つですが、そう、涙国では、コクサイシャカイの情報は流れても、三郷市のヒトは、つくば市の議会で昨日今日、何が討論され何が決まったか分かります? 同じムラに、同じ新線が通るのに、関係ないのですね~。
西京ムラや中京ムラがどのような暮らしの政府を築こうと関東ムラは関係ありません。島嶼のカイシャも、中国や欧州や米国に身売りする世の中ですから、関東ムラの住民は中京ムラも西京ムラも、米国や欧州や中国で働いたり暮らしたり旅したり経営するのと同様に、必要なときだけ関わればよいのです。
暮らし部分のムラビトは、自分のムラは自分で築いて欲しい。出発は一線でしょう。しかし時間が経てば、各ムラの個性と暮らしの長短は、自ずと明らかになります。
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