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2005-03-18

マスコミに白旗を掲げるインターネットの表現理念

古風ですね~涙国の戦国時代

先日来、寡占媒体でも共有媒体でも一つの話題が取り沙汰されています。ある放送媒体の支配権を、誰が握るかというとても古風な買収劇、なのに不思議ですね~聞こえてくる言葉に、新媒体と旧媒体を融合するとか、旧媒体の終焉(しゅうえん)を早める等の主張や解説が紛れ込んでしまうのが。雑感【ふり~あれこれ】を抜粋して再掲します。

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 省媒体! 釣りたての情報を江戸前で食べる提唱(略称:えどまえ)です。

 21 Jan 2000  言論にも報道にも「ふり~」の波が押し寄せています。従来型の文章媒体は、出版社はもとより新聞社も要らない、いえ、予言ではなく、要らないという感想を抱くようになりました。文章媒体の技術や採算や効率の話ではなく、表現する側の意図や態度に「ふり~」を求めてしまうのです(随想を書き始めた昔からそうでした)。

 記事を書いて、あるいは文章を表現して、何でお金を求めるのでしょう。一つはお金がかかるため。一つは生活しなければならないため。一つはお金持ちになりたいため。有名になりたい気持ちも大きいのかもしれません。しかしインターネットを利用すれば媒体にかかる費用は大幅に軽減されます。問題は研究や取材に要する時間と費用! この問題には「家事」や庭の手入れ同様、小説や随筆を書く時間と費用は含めません。

 ものを書くことを職業と認める通念は歴史的なものです。技術が進めば通念も変わります。蓄名(?)は「ふり~」な営みでも可能です。無論、稼げるのなら好きなだけ稼ぐのが当然です。「ふり~」は義務でも強制でもなく「自由」です。

 25 Jan 2000  禁断の木の実----いえ、江戸前の赤貝を食べてしまったのですインターネットを利用できるようになってからは。例えば広報の文言、そう、「にゅ~すりり~す」と呼ぶアレのことです。

 記者の表現力、媒体の編集方針、限られた掲載面など、種々の制約やら干渉によって、江戸前のアナゴも味が変わり活魚の持ち味が薄れてしまう、だけであればそれほど不満はないのですが、多分「にゅ~すりり~す」の原文には、わかり易いように表現上の工夫や吟味が加えられているのでしょうが、一方、新聞記事には、簡略化によるわかりにくさがつきまとっているように思われます。さらに、発表時と購読時の間には、編集・印刷・配達の時間が延々と横たわっていますから、江戸前の鮮魚には遠く及びますまい。また新聞の場合「にゅ~すりり~す」と購読者の間には、人間も設備も発生しますのでとてもふり~とは行きますまい。広告収入で賄うのでなければ、それらの費用も購読者の負担になります。

 広告収入依存であれ「ふり~」であれ、関心の篩が社会システムとして充実すれば、文章による情報の、すべてがそうなる必要は微塵もありませんが、おもしろいから、はやいから、わかりやすいから、採りたてのシャコは江戸前で茹で、釣りたてのハゼは江戸前で揚げた方がウマイかも。

 31 Jan 2000  文章表現をウェッブ・サイトに掲載するのに、お金はいくらかかるでしょう。要領さえ知ってしまえば、あるいは工夫次第で、インターネット上に文章を公開するのはタダ同然だと思います。ですから、もし蓄財が従で「表現」を主に置く著者は、読者に試食の機会を提供、その反響によって----営利を従に置く市場の評価によって----商業出版に踏み切るか否かを判断すればよいのです。インターネット上で高い評価を得られれば、単行本で出版するリスクも軽減----されるかどうかは、あるいは「ふり~」で読める文章にお金を払う読者の読みと「両立」の工夫は、表現する側ではなく事業者の課題です。

 文章表現の私の態度は「ふり~」にあります。表現する気持ちの自由と、公開の機会均等にあります。商業出版社にも趣味の団体にも依存せず「ふり~」で表現できるのがインターネットの時代です。それは文章表現を、媒体の枷から解放することにはなりますまいか。代弁者の文筆に拠らず当事者が直接自己を著わし、媒体の権威に拠らず読者が直接試食する、状態が拡がるとよいですね。

 09 Feb 2000  少年の頃、あるいはもう少し陳(ひ)ねていましたか、卸は消えるのが定めのような論調が飛び交い、子どもなりに不安を感じていましたが、やがて勢力を増した量販店が直接生産、の過剰在庫が店内の通路まで溢れ、煽りを食った製造卸の買取品が、売れているにもかかわらず返品され、協賛金だけただ取りされる出来事が日常茶飯のように起こりましたが、正論では飯は食えませんので、自助で対処できなければ没落するのが定めです。もっとも、流通革命は当時の言説通りには進みませんでしたが、過去の言説に責任を持つ発行者や執筆者は先ず見当たりません。言論の世界は言いっ放しが常識なのでしょう。

 泡期までは自由化であれ空洞化であれ、お節介にも、施し一つ受けていない中小に自助を説き、大きなお世話にも、傷んでいる零細に痛みのわかち合いを説く論調が大手を振るいましたが、高処の表現者も泡の弾けた今は豹変、自助の放棄こそ繁栄の証と口角で泡を飛ばしていますから、確かに文章表現は繊細な魂にとって、抜き身の鋭さをそなえています。

 10 Feb 2000  総体の表現を、時間の制約も、量の制約も、金銭の制約も、地域の制約もなしに出稿できる媒体は、従来の技術では考えられませんでした。時間を刻み、部分を千回小出しにしても総体は掴めません。しかし先端事業者を除く多くの会社は、未だに従来型の表現をインターネットに横滑り----させていようといなかろうと私にはどうでもよく、権威ある文筆家の姿勢に関心があります。

 限られた見込客に向け、一般受けしない表現を呈示、感性や理念の同異を尋ね、問題を提起する場合、今までは個人にも事業体にも、自助で、採算に合う方法はありませんでした。砂漠に散水する徒労を重ねなければ、自助で、限られた一部の層に総体の表現を伝えることは無理でした。宣伝効率としては最悪ですね。

 インターネットを貧しくするか豊かにするかはヒト次第です。文章の表現者、特に権威ある論客が、これまでマス媒体や有力な出版社を介して流してきた言説は、得意になりたかった? お金が欲しかった? だけではありますまい。表現の中身に、主張の流布に、問題意識の醸成に、あるいは啓蒙に第一義があったのでしょう。ではなぜインターネットで自己の表現を、その総体を公開しようとしないのでしょう。自己の表現に自負があれば、それを公開する新しい技術を、貶めるような発言はできない筈です。当事者による総体の表現を、文章の総量開示を、実現させてくれたインターネットは、権威ある傍観者と干潟の沙蚕の違いも、明らかにさせてくれました。

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支配権の奪い合いは五百年先も千年先も日常茶飯事、なにも情報技術論を持ち出す必要もないでしょう。溜め息は寡占媒体の現実および将来からではなく、寡占媒体を占有する総花表現者とブログ表現の共通性から。

インターネットの表現活動が、寡占媒体で成功を収める登竜門になりつつあります。有力な寡占媒体は「マスコミ」として、益々事業価値を高めます。

涙国のインターネットはマスコミを映す鏡の破片、数百万数千万の、共有媒体から発せられる大所高所の正論が、赤貝を、その生育する土壌ごと干涸らびさせてしまいます。 18 Mar 2005

クリスマスの季節-394-

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かくて誰もが
インターネットは顔が見えない
インターネットの意義、あるいは情報赤貧の悲哀





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