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2005-03-10

ジグザグを続けて幾歳月

 中川 八潮市から

中川やしおフラワーパークから。中川の南岸、共和橋西詰近く。

釣り、携帯電話、散歩姿に交じって、放し飼いにされた大型犬、吼える犬二匹を繋いだ黒い窓の高級車、立て看板、空き袋、防水布、ゴミ。



 八条八幡神社 八潮市

 和井田家住宅 八潮市

埼玉県の八潮村に、私が初めて出かけたのは中学生の頃、ライトバンの助手席で車の天井を押さえながらでした。

綾瀬川沿いの砂利道は凸凹で、車が跳ねると頭が天井に。田畑にレンゲソウ♪ 昭和三十年代前半の思い出です。

我が家で上の子が生まれた年に、両親は住まいを郊外に移しました。田畑と小川のほかは樹木で覆われ、ウシガエルの鳴き声に、母は涙がこぼれたそうです。

東京都がもう少し北寄りですと、八潮村も両親が移った先も、東京都に飲み込まれていたでしょう。都境なのに、当時の登記簿には、東耕地、西耕地、後耕地、小作田、兎田などの名も。

それから何年経ったのでしょう。三郷から八潮に通っていた職長が、中川に架かる八条橋の渋滞に焦り、時に泣いたこともあります。

今(2004年3月中旬)も週末、八条橋を西から東に渡るときは、片側一車線の東詰で、下流方向への右折車が道を塞(ふさ)ぎ、渋滞時の私は、八条橋西詰のずっと手前で、八条橋の南側を通る外環道路下に入り、中川を渡り、江戸川に架かる流山橋の渋滞は、流山橋のずっと手前で北へ迂回して、江戸川の土手沿いから流山橋の際(きわ)へ抜けます。

三郷ICが渋滞しますと、外環道路下も余波を浴びます(←外環道は有料、その下は一般道)。外環道路下の開通前は、松戸へ大きく迂回したこともあります。

同じ新線が通る三郷市は、常磐道と首都高と外環道の接点に位置します。幼い子連れで釣りに出かけた当時の大場川は、栄養と釣り具の進みすぎで、小鮒への期待とは裏腹に、鈍い鯉や重い鮒が釣れてしまい味気なかった、ですが田園ののどかさは残っていました。

西から東への僅かな距離を、南へ北へとジグザグを続けて幾歳月。

関東平野を走っていますと、裏道も脇道も、立派なだけで、車は影も見えない道路が無数にあります。

政壇の道路云々には、天上天下解らなすぎでついて行けません。最も解らない箇所は道が道だけの点。

和井田家住宅の画像は、現在の八潮市からは到底信じられません。

八潮市は、東京都に隣接していた田園地帯で、鉄道がなく(←新線が通ります)、根こそぎに対する古民家古商店からの制御を欠き(←流山の今も)、工場、倉庫、物流基地、野積みが割拠、区画整理事業では、風土払拭の象徴「緑を冠した住所」も生まれています。

共和橋下流の潮止橋は、水元公園への往復に利用します。

中川は、潮止橋の下流から東京都へ入ります。

私は中川の流れに無関心でした。それが水利権、折衝、過労、入院、手術に続いて、営繕、双肩、二十四時間稼動、深夜の呼び出しを垣間見て、ある時から変わりました。

昨日今日は常磐線から、中川西側の広い部分と、中川東側の広い部分が、荼毘(だび)に付されたお骨のように砕かれ、片付けられる様子を見届けました。西側の広い部分も、経営母体の戦前は上位何十社に入る基幹産業。

国、空洞化して草木なし。

クリスマスの季節-213-
金太郎飴ミクロン幅の輪切り
昔の今 昭和二十年代?


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