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2005-03-03

次第

 右手向かいに柳森神社

 高い建物は秋葉原駅前

柳森神社は靖国通りから北へ入った神田川沿いです。同じ距離、靖国通りから南に入りますと、事務所・共同住宅・駐車場の建設現場↓。地上9階、高さ35m、延べ面積5500m2とあります。ここも古い商家が孤立していた土地。周囲の道路は狭いです。

住み続けたい! なのにそれが出来なくなる次第は泡時代に、繰り返し報道されていました。

地上げについては最初の随想でも触れました。地上げに携わる業者は一般とは限りません。時に指定や広域の影。幸い前々からお世話になっていた専門家(←橡展にもご来展)に、法律上も精神上も助けていただきましたが、それでも長年、暮らしが暗くなり、権利の損傷も金銭の打撃も避けられませんでした。

泡期に至った経済の軌跡。地上げに注がれたお金の出処(でどこ)。泡の破綻後、軒並み自助を放棄した金融機関。

泡期の過去を忘れないで欲しい。感性の修復と住環境の再生は、あと何百年かかるのだろう。

その泡がはじけて建設を中止、剥き出しになっていた鉄骨が最近、除かれ、地上12階、地下1階、高さ34m、延べ面積2000m2の共同住宅の建設が進んでいます。人形町の大通り(一方通行)が靖国通りと交わる手前、事務所ビル街の狭間です。

神田界隈の靖国通り沿いや昭和通り沿いは、歩道を自転車が突き進む会社員や店員の街です。ランドセルに潰されそうになりながら、地下鉄の秋葉原駅方面から、廃校(昔の小学校、今は高校の仮校舎)前の路地を抜け、神田駅方面に通う小学生も出合うのは一人だけに。

最近(2004年夏)歩道で、赤ん坊と幼児を連れた母親に出合いました。幼児を乗せ、会社員の間を縫う自転車も見ました。

 柳森神社

 1958年

 和泉橋





 靖国通り 須田町方面

 靖国通り 両国橋方面

 71年まで見続けた路地

 上の路地から

タテヨコに都電が走っていた時代の小六の時、市川市の私立から駿河台下交差点スグの区立へ転校。その流れから、神保町交差点スグの区立へ進みましたが、神田駅東側スグの今川中学校へは、越境しなければ私も通う筈でした。神田へ越したのは中学へ進学する春。

千代田区の東神田から、中央区の日本橋馬喰町、東日本橋、日本橋富沢町、日本橋久松町、日本橋浜町、日本橋人形町へかけても共同住宅の建設現場に出合います。

 馬喰町の大通りでも

 浅草橋交差点すぐでも

 共同住宅建築の波

 神田川 秋葉原方向

共同住宅のほかに使い道が思いつかない繊維街も、泡期には賃貸の事務所ビル建築を前提に、例えば前々頁の「上の路地」の奥、僅か十数坪も地上げ業者の標的に。金額は推定二億数千万円、誤差数%以内。

地上げのお金も出処を溯(さかのぼ)れば金融機関。不動産の売上金を、会員権に、事務所ビルに、マンション一棟に、航空機に、さらに投資するよう促したのも金融機関。それが悪夢ではなく現実でした。

当時は廃業する繊維業者も、金融機関が提供した採算計画に夢を見出し、誘われるままにお金を借り、賃貸の事務所ビルを建てていました。縁者は今も、入居者探しと返済の重荷で、不安の日々を送っています。

今の共同住宅建築の波には、お金以外にも疑問が湧きます。問屋街も事務所街も共同住宅の比率が高まり、下町の住宅も郊外の住宅も中高層化が進みますと、緑を根こそぎにした新線沿線の町づくりは必要なんだろうかと。

住環境が一層ガタガタになります。ソモソモ中高層住宅は子育てに向きません。

疲弊する余地もなくなった緑、瓦礫の含み資産の膨張、財産価値下落の懸念、共同住宅建て替え時の煩わしさなど、未来の子までババを引きます。



 雨の日の南天 千葉県

 牢屋敷跡の一つ 中央区




 寶田恵比寿神社の前

 椙森神社の神輿


私の幼い頃は
泣き虫、湯嫌い、気難し屋、蕎麦好き
湯屋の敷居を跨ぐと泣き出し
湯上りの着物を着て外へ出るまで泣き通す
母は湯嫌いを治す呪禁だとして
浴槽のザクロ口へお供えを上げた

   §
   §

南京米の等分に混ざったお米を二十五銭ほど買って帰る途中
新堀の橋の際に出ていた煮込み屋で
豚の臓物の串刺しを
味噌で煮た一銭四本の「牛煮込み」を買い
片手にお米の風呂敷、片手に煮込みを下げて帰る楽しさ
真冬の夜など、両親がランプの下で懸命に仕事中
命じられ、買ってきた焼き芋の風呂敷を広げ
湯気の立つのを、親子で囲んで食べる美味さ

   §
   §

この頃の私の楽しみは
週に一度、夜業の後に
近くの蛇骨湯で入浴することであった
場所柄、蛇骨湯の終業は遅く、夜の一時頃
私は、番頭が砂で流しを洗う時刻に入浴することもあった
湯の帰りに夜店をうろつき絵葉書を見るのも楽しみだった
日露戦争当時、絵葉書が熱狂的に流行ったが
戦争記念絵葉書は発行直後
右から左へプレミアム付きで売買され
絵葉書屋の夜店が至る所に現われ
様々な絵葉書を白い封筒に入れ
福袋と称し
一袋一、二銭で売っていた
大勢の人が押合いながら封筒を燈火に透かす
中に優秀品が入っている袋があったので
私もそれを当てようと
湯の帰りに福袋を買い
封筒を破る一瞬が無上の楽しみであった

   §
   §

その後も私は仕事の都合で夜店を開いた
下谷竹町の、裏通りの湯屋の前は
誰でも勝手に店を出せたが
よい場所は夜店の権利が数百円で売買された
私の夜店は場所が悪く
売上げは一晩で一、二円程度
十時には店を仕舞った
仕舞いかけに客が来て
四円三十銭売上げた夜もあった
或る晩、年増が十三銭の足袋を買い
白銅を十五銭出したので、釣り銭二銭を出すと----

  お釣なぞ要りませんわ
  こんな良いところで夜店をしている方の
  お釣なぞ頂きませんよ

と言ってさっさと行ってしまった
そういう本人も夜店の安足袋を買うほどであり
夜店の客と言えば十人が十人、値切るのが普通だったので
とても不思議な客だった

   §
   §

道潅山の下を過ぎ
王子を越して
赤羽の渡船場でようやく夜明け
暁の川風は頬を刺すように冷たく
河原は霜で真っ白だった
川を越えるとほどなく川口
着いたのは朝の七時
出店の商人は影も見えず
不審に思って土地の人に聞くと
市は夜!
確かめずに来た軽率さを私は悔いた
町の中ほどの、火の見の下に店を出した
午後の二時頃には
股引草鞋履きのお百姓さん姿のお客が現われ
古着、小布、シャツ、股引、足袋、
下駄、農具、乾物、野菜、おでん等
出店商人も相当増え
どの店も繁盛、市は真夜中まで賑わった
私も古法被を山積み
その脇に足袋を並べたが
足袋は完売するも、法被の売上はたったの三枚
古法被一枚の、原価十三銭を三十銭で売り
安いと言われ値切られもしなかったが
古法被が売れたのは十年も昔の話と知り
足袋を大量に持ち込めば相当な売上になったものをと
人に言われるまま出かけてきたことを私は恥じた
十七円の売上を懐に
居酒屋で食べたケンチン汁と
傾けた徳利の濁酒が
忘れられないほど旨かった

   §
   §

朝から晩まで山のように群れる客のため
昼飯は三時になることも珍しくなかった
それを私と妻と小僧の三人でやり通し
商い高は夢中の余り判らなかった
客足の絶える夕方から裁断をはじめ
ベッタラ市の頃は冬物の最盛期で
夜を徹して裁断した

   §
   §

商売をしていた頃の私は
起床後まもなく裁断屋へ出勤
裁断の手筈を決め
工場と職方への割当を考え
朝食を済ませ
店に坐って商いを監視しながら
絶えず仕入れと職方に応対
釦の数を計算
製品を収納
工料と仕入れ代金を支払い
毎月発行する商報の帯封を書き
それを三百六十五日繰り返していたが
夜業だけはやらぬ事にしていた
毎日、昏方になるのを待ちかねて
銭湯に出かけ
その湯に浸かっている間こそ
開放される時であった
湯の帰り
大きな月が昇った時なぞ
うっとり眺め
歌を考え
危うく自動車に挽かれそうになったり
立ち話なぞして遅く帰ると

……自伝抄録より

神田に移った後の、祖父の店から宝田恵比寿神社までは徒歩七、八分、裁断する生地の都内の仕入れ先は主に堀留、祖父の行きつけの銭湯は日本橋でした。

クリスマスの季節-327-
クリスマスの季節-335- ←また自助を放棄するのだろうか
クリスマスの季節-339-
クリスマスの季節-340-
クリスマスの季節-342-
クリスマスの季節-356-


夢想から生まれた一つの願いは
密集地で住み働く我が子我が孫が
避難する新宿御苑を列島随処に!

地震国でありながら
過密な社会は土台がヘンです

列島の密集各所に、塀のない
新宿御苑がいくつも要ります
とてもお金がかかります
ですが優先してそうして欲しい

……散歩者の夢想MLの表紙より



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