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2005-03-01

昔の今 昭和二十年代?

 デージーの路地


 電車での通園通学時は

 この線を利用しました


 道は南北、西側の建物

 東側の店にも活気が


 南から陽射しは床屋も

 床屋の向かいで下駄を


 ○○パン店が何処かに

 昔はこの辺に同級生宅

 交番の近くに駄菓子屋


 平屋の甍(いらか)

 昔の我が家の南側の家

 昔の我が家はこの奥

省線は平屋の駅舎
駅前に輪タクの列
傘を抱え
駅まで迎えに行きました
はためく幌(ほろ)の響き

私鉄の駅から街道まではデージーの路地
七五三姿も通りました
今はJRと私鉄の間に地下鉄の駅

当時の繁華街は「道は南北」の通り
真っ直ぐ北に進み、西に折れるとS先生のお宅
そのずっと手前、履き物屋さんの少し先で東に折れると
肥桶(こえたご)を並べた荷馬車が通うドブ川の路地
デッコボコ

他になかったので
やむなく買った○○パン店は
ドブ川の道を少し歩いて北へ左折
その十字路を右折して暫く南下しますと
私鉄の踏み切りを渡りJRの駅へ戻れます
幼い頃はこの道がなく
開かれた当時は殺風景な砂利道でした
○○パン店が何処かにと書いた辺りは
現在、道幅の拡張工事

道が縦にも横にも増えて行きます
増えたのは随分昔から
越してからもS先生(我々の仲人)宅にお邪魔
両親もH先生(ご近所、Y医師とご結婚)と往き来があり
一帯の変化は分かっていました
大きな違いは歩けなくなったこと
自動車と自転車が危なくてです
変わらないものもあります
私鉄の踏み切り

とても多いのです狭い踏み切り
なのに多層化を続け
駅に向けた道を整備すれば
住環境はよくなるのですか

幼児は遊べず
高年者が歩けない街に変わっていました
通学もそう
寄り道できる緑は絶無同然
首都圏はどこも一緒
自分だけ功を成せば
その場限りの采配でお茶を濁し
足許の幼児はお構いなしの暮らしの仕組み
それが涙国

……クリスマスの季節-208-より



 昔の通学路の一つにそっくり


小三か小四迄に、だったのでしょう、私の娯楽窓が「この種の情景」に、感受窓が「斯様(かよう)な情景」に、属するようになったのは。

………… やがてどぶ川が消え、デージーの庭が現われました。

瓦(かわら)に巣くったムクドリを見に、竹垣を伝って屋根に登れば、見渡す限り平屋の甍(いらか)、市川にはクロマツ林、北には田畑が広がって、二階建てが少ない時代、東西に細長く、狭い敷地のわが家でも、薔薇が見事に咲きました。

青空が広がり、雲の影が甍(いらか)を伝う家並み(やなみ)には、静謐(せいひつ)という言葉が生きていました。夜明けが家族を力づけ、夕闇が家族を呼び覚ます時、孤独さえ友として、夜空の声に、聞き入ることができたのです。

子育てのときは夢中でも、子離れしてみますと、子が生き甲斐であり、子が生きる支えだったことがわかります。しかし子が生きる縁(よすが)だったのを知ったのは、父の病気がきっかけです。両親もわが子を信頼しています。両親は、父にとって最も重要な選択を、我々兄弟に委ねました。

前々から「子の世話にはならないよ」「動けなくなったら施設に入ります」と話していた二人です。今回も、二人だけの生活に不安を感じ、いろいろ援助を申し出ましたが、将来の入居の意志は変わりません。先のことはわかりません。しかしこの気持ち、わかるような気がします。

我々夫婦も、動けなくなったら、同じように振る舞うであろうからです。しかし治療の選択を、私はわが子に委ねません。まず本人に伝えて欲しい。選択は自分でします。関係者へは私が伝えます。しかし私は誰にも伝えません。自分の重荷は、自分一人で引き受けた方が、私が楽だからです。

この歳になって迷いが出ました。「どちらでもよいのだよ」、父の声が聞こえてきます。

デージーの庭に薔薇が咲き、薔薇の庭に日本水仙が植えられました。薔薇も水仙も、母が植えました。

現在のわが家でも、日本水仙が植わっています。私が植えました。位置も同じ東側、しかし昔は南向きの東でしたが、今は南東向きの東、つまり北東の一角の、昼には影になる部分。

わが家は南東向きなので、夏は風通しが悪く、冬は陽が入らず、花つきがよくありません。せっかくの日本水仙も、最初の年だけ花がつき、以後、肥料を与えても分球しても、青葉が茂るだけです。

私が分譲するのであれば、南に向けて区画を切ります。草花は生涯の友です。南東向きに区切って得られる利益が、自分の生活に加わるとしたら、生涯そのことを悔やみます。もしこの団地が南に向いていたら、千の家族が数十年間、いや数百年間、日本水仙の美を得られます。

昨日は東京都美術館に、テート・ギャラリー展を見に行きましたが、祝日も手伝って混みました。遊園地も庭園も、混雑する日は入場を制限し予約をとります。雑踏の中で鑑賞する美とは何でしょう。

芸術作品を、主義者や分限者が私物化することは、かたくお断わりします。しかし、いくら美術が身近になったと言いましても、鑑賞する土壌が損なわれてしまえば、せっかくの作品も台なしです。

美を愛するのであれば、足元の美が失われていく状況に、暗澹(あんたん)とした気持ちを感じて当然ではありますまいか。テート・ギャラリー展もまた「踏踊」の一つ、わが家の庭と地続きにあり、心象に穿(うが)たれた扉の一つ、英国絵画の最高傑作も、はるか昔の、日本水仙の一輪なのです。

日本水仙に続いてグラジオラスを植えました。剣先の蕾が開き、家族が持ち帰る草花で四季折々、花の絶えない庭でした。もとの敷地は畑だったので、草花の育ちがとてもよく、肥料や薬剤はほとんど要らなかったと思います。

脳裏に、草花の一つ一つが刻まれて行きます。交響楽団にも匹敵する演奏装置が、生活の一こま一こまを譜面に変え、現在を様々な作品で満たしてくれます。

わが家を出て北に進むと、原っぱ、畑、田んぼ、溜め池、小川、林、森など、子に必要な自然がひと通り揃っていました。

幼い私が、最初に美を意識したのは、林立する巨大な粟(←タカキビの名前を誤って記憶)です。行く手を塞(ふさ)いだ粟畑の、代赭(たいしゃ)色の穂に魅せられ、その場を動けなくなりました。粟とは初めての出会いでしたが、それが河原の葦とは違い、食用に供する穀物であることを、生まれる前から知っており、この世で偶然再会して、衝撃を受けたのです。

若い芒(すすき)の赤い穂も、珊瑚樹の赤い実も、最初の一目で懐かしく、今でも見るたびに痺れていますから、感受性の宝庫だった幼い頃に、粟の穂に行きあたれば、動けなくなるのも当然です。

花壇と縁側の間は、子が好きに使えましたので、次にダリヤを植えました。

今は矮性(わいせい)種で、色数の豊富なダリヤが、鉢植えや花壇をにぎわしていますが、当時の私が選んだダリヤは、丈の高い八重咲きでした。ポンポン咲きも好きですが、そのときは、球根のよし悪しも花の種類も意識しなかったです。

新聞紙の球根の、何を買ったかは、花が開くまでわかりませんでした。自分が植えた草花は、色や形には動かされません。現われた太い芽も、緑色の最初の蕾(つぼみ)も、言葉を失うほど嬉しかったですから、赤紫を認めたときは、十分すぎるほど幸せでした。子にも、花を咲かせることができたのです。

幼い私が描いた絵は美ではありません。遊戯か、色や素材の実験か意志疎通の企画であって、幼いころの描画は、様式の前奏にも「踏踊」の雛型にもなれなかったです。

未完成状態は最も好きな雛型(ひながた)です。子は自然との関わりから美を紡ぎ、両親との関係から美を蓄積します。

トウモロコシも植えました。種の入手? 育て方? はっきりしません。地面を耕して方形に種をまいた、種ではなく苗を植えたのかも知れません。記憶はそれだけ。ある日、穂が伸びて埃(ほこり)のような雄花が咲き、ある日、茎が膨らんで極細の糸が房をなし、髭(ひげ)が色づけば収穫でした。

わずか数株でしたが、照り映える緑の葉と、金色に輝く豊かな髭が、影を光に変えました。

採り入れの緊張と、収穫を母に差し出す喜びは、絵画も音楽も及びません。

収穫の喜びを知らないと、美が心象に育っていないと、同じトウモロコシを見ても、「踏踊」の扉は開きません。今の子の、何人が収穫の喜びを知っているのでしょう。過去も、現在も、未来も、我々は美を貶(おとし)める不利益を知りつくしていると思います。しかし、美を鑑賞する土台については、心象を育む環境と状況については、保護も演出も充分とは言えません。

最先端の美術に関心があります。それは心象に雛型があっての話、代替であるなら、先端の追究より、金色の穂を選びます。

義務の教育に農園が付属して、義務の庭が御苑であって、義務の通学路が自然遊歩道であればよい----と想うことがあります。

老後? 第二の人生? 私にはその言葉がわかりません。もし老後という人生が存在できるのであれば、それは老後に突然生まれるのではなく、若い頃から、老後の人生と第一の人生が鎬(しのぎ)を削っていたのでしょう。第一の人生が朽ちれば、自然に老後が跋扈(ばっこ)します。

トウモロコシの庭からは、これ以上の収穫は期待できませんが、戸外にも、子が遊べる自然があり、子の居場所がありました。

学校の裏は田園でした。春は梅の香りで始まり、田んぼの蓮華(れんげ)草と、菜の花と、ソラマメの香りに引きつがれ、子は誰の許しも得ないで、春の野原を走っていました。

桜の印象がありません。この地の桜は、入学式の象徴でしたので、入学の緊張や進級の不安によって、鑑賞する余裕を欠いたのでしょう。晴れた桜はけだるく、曇った桜はうっとうしい。

学生の頃、菜の花の描写に苦しんだことがあります。作法は写実、動機は郷愁、細描にこだわったことが、死語の羅列に終わり、夜更けに書いた原稿を、朝には捨てる日々でした。

抽象美術にも「錯誤」のうかがえることがあります。事前に立体化された構築物がないと、頭脳は意味不明の観念をくり出します。それを表現者は前衛と錯覚し、自足の罠(わな)に陥りますが、当時の私はお化けの山に、愕然として筆を捨てました。描写する必要はなかったのです。扉で守られていたのですから。

表わしたいのであれば、環境を戻せばよいのです。畑に遊ぶ菜の花讃歌は蛇足にすぎません。菜の花が消えた子の心は、わからなくて当然です。

花見のお弁当が楽しいのは、子の心が息づいているからです。夜明けの桜が美しいのは、澄んだ空気と沈黙があるからです。自由は喧騒の彼方にあります。静寂がいかに美しいかを、桜の樹肌が語っています。

シジミをとった小川は、真間川水域の一部でした。真間川の土手には、桜並木もありましたが、土手の桜にも際立だった印象は残っていません。真間川に添った洋館の、鬱蒼(うっそう)と茂ったバショウが、宴を砕いてしまったのです。

色も、文字も、音も、夜明けも、悉(ことごと)く忘れていた頃、運転席の窓のすきまに、透き通った闇が現われ、様々な想いが噴き出してきたことがあります。降り立って闇を見ますと、黒い幹が、震えながら立っていました。

我が子が去ったのを悟ったのでしょう、残りの蕾(つぼみ)を振るい落として、剥(む)き出しなった桜の樹肌は、人の恥部のように生々しく、子を慈(いつく)しむ母のようにやさしく、涙がとめどもなく流れてきました。

二分咲きだった桜が、記録的な暖かさに急かされ、わずか一日で七分咲き。青い闇を認めた頃は、児童公園を半周するだけで息切れしました。寒気の去った今は、宙を翔(と)ぶ爽やかさ。

自由は権利でも概念でもなく、素肌の感覚そのものです。清澄な大気の中で、人は毎朝自由を知ります。早朝の白い並木を、たった一人で舞っていますと、雲に乗った心地がします。雲海は雪柳に引きつがれ、染井吉野に赤みがさし、朝の太陽を迎えます。

静寂の育苗、沈黙の豊穣、声なき讃歌、律法なき祈り----

文字や音や色を用いても、表現できないが楽曲があります。限りなく広く、遥かな宇宙を仰ぐと、最も静謐な星から、最も暗い沈黙から、存在を讃(たた)え、生命を祝福する旋律が聞こえてきます。

本八幡時代の自然は、静寂と歩みが一つでした。真夏の真昼、午餐(ごさん)を終え、ズックを履き、扉を開け、稲穂を飛び越し、草地を渡り、楢(なら)の樹海にわけ入りますと、湧水の澄んだ流れと、鏡の湖面がありました。

原始の自然は、限りなく美しかったのでしょう? 火山も荒野も自然の構築物はことごとく美しい。自然から生まれた人間には、なぜか自然に対し、美と称される照応が予定されています。

畏怖(いふ)はあっても、植物で被われた地表に、醜さを見出すことは困難でしょう。人も同じですよ。人は慈愛に包まれて生まれてきます、その照応に比肩できる美しさを、人為で成すことはできません。

価値観や善悪の軌範は外的因子に影響される、そうではあっても、より深層では、美の衝動に支配される、それほどまでに自然は厳しかった----

湧水の流れと鏡の湖面は、大気よりも透明で、宝石よりも明るく輝いていました。なぜ自然がその逆でなかったか、不思議でなりません。

小学校の裏の沼には魔物が住み、踏みこむ者は容赦なく裁かれましたが、楢の樹海は妖精さえ遠慮して、訪れる子に……

義務の現場が庭園であり、通学路が照葉樹の雑木林であれば、はたして卒業生は、校庭をコンクリートで塗りつぶし、雑木を引き抜き、通学路を車道に変えることを喜ぶでしょうか。人は百済観音にペンキを塗り、向日葵(ひまわり)を看板に変えることを望むでしょうか。

芸術と呼ぶ習慣がない、それだけのことではありますまいか。感動のかけらもない作品も、ひとたび芸術と呼ばれますと、人は頭から護(まも)るように ………

……クリスマスの季節-63-より


 葛飾八幡宮の門前

 中山法華経寺の門前




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