« お相子(あいこ) | トップページ | 幻(まぼろし) »

2005-02-28

らららラララめ~りか!

銀座は東も西もよく歩きました。通学帰りは(1960年代初めの三年間は)学生鞄に詰め襟の制服姿。正規の通学路から、所用(?)で途中下車する高校生が、私服に着替えるのはむしろ奇妙。尾張町の交差点すぐでは、楽器店で楽譜を探す楽しみもあったのですよ。ウエストサイド物語の輸入楽譜を、ある演奏家にお貸ししたことも。


【らららラララめ~りか! その1】

編集中記 No.112~116、119
クリスマスの季節-236-
クリスマスの季節-35-
クリスマスの季節-2-

大学二年のゼミ(前期ゼミ)は「管理会計」でした。商人の子は商学部、商学部は簿記学校の親玉、簿記と会計の違いは言葉の綾、程度の認識で学部を専攻しゼミを選択したのですから、教官もさぞ迷惑だったと思いますよ。簿記も管理会計も、少しも興味が湧きませんでした。前期ゼミの教官に許しを得て、出かけたのが最初の海外旅行です。

カナダ(1965年の晩春から初夏)では、何処の都市か忘れましたが、地方新聞に写真入りで我々一行が紹介された記憶もあります。日本からの工場見学が新聞種になる時代だったのです。旅行社は某大手運送会社系列。ホテルは一流でしたが二人一部屋のため、メンバーとは年齢の離れた私は、列車の個室もホテルのツインも添乗員と始終相部屋。添乗員は、旅程、通訳、会社訪問の段取りまで何もかも一人で面倒を見る必要があり、しかも日本からのカナダ観光は黎明期でしたので、現地での直接手配や現金決済が多く、添乗員の腹巻きから分厚い札束がはみ出した----。私の手では掴みきれない厚さがあり、一瞬、我々が支払った旅行代金が、どんぶり勘定で費消されていくような錯覚に捕われました。

添乗員の忙しさは、今の団体旅行の比ではなかったでしょう。カナダ太平洋航空とタイアップした観光開発の最初?の試みに、我々の視察旅行が重なったそうです。しかし、さすがの添乗員も一人では動けません。となりますとガードマン兼メッセンジャーが必要になり、その役は、お客である私が帰国直前まで担当、ラスベガスの一晩を除き(なぜあの日に限って一人部屋になったのか? まあ、精力溢れた中年男性のすることはよく分かりません)、旅行社の活動についても、よい勉強をさせてもらいました。

一行は互いに、一皮むけば商売敵ですから、社長や理事や議員の肩書きを持つ問屋衆の本音は「知りたいが知らせたくない」。団体旅行と言いましても、その実体は見本収集、技術吸収、設備目算、仲間蹴落としですから、昨今ハヤリの、業務に名を借りた観光とは性格が異なり、飛び飛びの景勝地観光と、折々の晩餐を除けば自由時間は隠密行動。提供する材料がなく、吸収一方の私はメーリングリストのROMよりも冷たくあしらわれ、サンプル仕入の本拠地になったニューヨークでは、ホテルを除いて私一人が予約なしのブラリ旅。

お土産は、訪問先の地名が刻まれた記念スプーン各一、絵葉書多数、ホテル備えつけのレターセット各一、同じく備えつけの観光案内各一、飛行機備えつけの広報誌各一、まだ流通していた一ドル銀貨数枚、小銭バラバラ、国連の記念切手コレクション一セット、それに免税の洋酒と煙草。当時は、輸入洋酒と輸入煙草は贅沢品だったので、これだけで十分立派なお土産でした。

現地で自分のために買った品物は、先ずバンクーバーでセーターを一点。肩から裾まで大きくVの入った空色のセーターは、その後各地で人目を引きました(現地ではよく見かけるデザインなので、着こなしがよかったのです。ウン、トーゼン)。Vは白とクリームの幅広の帯。当時の日本では、とても商品化できない色彩感覚だったと思います。もう一点はホノルルでアロハの上下。セーターもアロハも寒さ暑さを凌ぐ必要から買いました。他に幅の極端に広いネクタイ2本。これは、日本から持参したネクタイが細すぎたためです。帰国後は、この2本のネクタイは使えなくなりました。自分用の土産は、美術館で購入した複製画のパネル一枚。複製画は年々色褪せ、今では無地の厚紙と変わりなし。

最初のニューヨークは、米国社会から子ども扱いを受け、酒席への立ち入りはその都度咎められましたので、21歳と嘘のつき通しでしたが(横合いから「もっとサバを呼んで」とこれは添乗員の声)、飲酒歴ではませていたため、良心の痛みは感じませんでした。同じ理由からか、ドアマンもチップを受け取らなかった。いや、私は当初、ドアマンにチップを渡すことを知らなかった。

高級ホテルの、威厳のある壮年のドアマンと、数日の宿泊にもかかわらず顔見知りになり、会うたびに挨拶を交わし、玄関を出るとタクシーを呼んでくれたり、玄関に着くとタクシーのドアを開けてくれたり、実にいい感じでした。しかし、他の泊まり客と手で何かをヤリトリするのを不思議に思い、ニューヨークを出発する朝、添乗員に説明を求めたましたところ、初めてチップの必要を知り、ホテルを引き払う際、ドアマンに紙幣を手渡そうとしますと、彼は笑いながら「アリガトウヨ、ボーズ、タッシャデナ」と言ったかどうかは忘れました。

円相場が、固定制から変動制に移行したのは1971年。それまでは1ドル360円でほぼ固定していた筈ですから、当時の海外旅行は想像以上に贅沢であり、常に「節約」が頭にありました。お金は十分----、十分すぎるほど持っていました。しかし、前々から現金問屋に関わってきた私には、そのお金が何を意味するか、それだけあれば何ができるか知っていましたので、懐の札束は始めから「現金懐炉」、とは言え私も生身の人間、食べなければ飢えてしまう。

威厳も盛装も持ち合わせのない「一人旅」にホテルの晩餐はとても無理です。場末の安宿がどんなに恋しかったか。ともかく歩きました。夕暮れのニューヨークを、あてどもなく歩け歩けの途中で目につくのはステーキ・ハウス。間口2間ほどの店先で、格子状やフォーク状の鉄の上で焼き上げる肉がいかにもおいしそう。もともとステーキは苦手でしたが、飢えには勝てません。値段も手ごろ。何しろチップを含めて1ドル?で足りたのです。

テーブルが、左右の壁にへばりつきながら奥へ続き、小型のゴキブリが壁を這う暗く侘びしい佇まい。テーブルは一つだけ埋まっていました。その斜向かい、入口側に席を占め、店頭の実演に目を向けながら料理を注文、と言いましてもメニューなど見当たらず、どこかに書いてあったステーキ定食を頼んだところ、大味の肉に、ぬるりとした生野菜、褐色のパサパサパン、生ぬるいビールの並んだ食卓では、みるみる食欲が萎えてしまう。肉を二切れ三切れ呑みこめばもう結構。チップを置いて、席を立とうとしますと----。話し声は聞こえませんでしたが、少年と両親だったのでしょう、私と同じ定食が並んでいました。しかしお皿には、肉の切れ端と野菜の滓が残るだけ。途端にガ~ンと来ました。

ニューヨークでは、純白の衣裳をまとった花嫁が、花婿に手を引かれ、歩く前方に教会がありました。短いドレスに、褐色の肌が際立って美しかった。

1965年の旅もいよいよ終わりです。ホノルルから羽田への機内は往路と違い、寛いでお酒も進み、飛行機の安定した振動にほろ酔い気分。しかし「連中」のお酒の強さには驚きました。

コクピットに接した座席に、米軍の将校がいたのです。窮屈だったのか、立ったまま仲間同士で話し始め、スコッチやカナディアンやテネシーウィスキーを、ストレートで休みなく飲んでいました。将校仲間の歓談は、彼らが飛行機を降りるまで続き、しかも乱れず、そのお酒の強さと体力に、改めて我々社会の、酒席の乱れを恥ずかしく思った次第です。

そうこうする内に「ベルトを締めよ」のサインが点滅、飛行機は急速に高度を下げましたので、そろそろ羽田と思ったのですが、到着予定にはまだ相当時間があり、しかも機外は見渡す限り青い海、陸はもとより、船影一つ見えません。少し変だ、いや大いに変だと心配になり、乗務員に尋ね、どこかに降りるらしいとは分かったのですが、理由も中継地も要領を得ない。第一、すでに海面が間近に迫り、機体を大きく傾けながら旋回しているのに、まだ真っ青な海ばかり。海中に突っ込むのかと、鼓動が聞こえるほど緊張してもまだ陸は見えず、車輪が滑走路に接地する衝撃を感じて、初めてウェーキ島を知りました。

民間機が、米軍の将校をウェーキ島に運んだのです。面積6.5km2の、珊瑚礁に囲まれた太平洋上の小さな島。降りるのを許されたので歩いてみますと、貝塚をならしたような滑走路から猛烈な照り返し。ほかには凹凸も見当たらず、遠くに無線施設と、小屋らしきものがあるだけで、任務でもない限り人の住める場所ではなかったです。1965年は米軍機が北爆を開始(2月7日)した年。当時の私は、ベトナム戦争を、ほとんど理解していなかったです。

64年8月 第一次トンキン湾事件
65年2月 アメリカ、北爆開始
68年1月 解放戦線、テト攻勢開始
73年1月 北爆停止


【らららラララめ~りか! その2】

随想 青い闇-6- 09 Feb 2001
クリスマスの季節-40-
クリスマスの季節-82-
クリスマスの季節-84-

新卒の頃、配属された部署で室内最上位の上司が、風呂敷包みを抱え、私を伴い、通行人を威圧する看板の掛かった建物に入り、私なら十年出入りしても迷ってしまう部屋に直行、ドアを押し開け、挨拶を傍聴した記憶があります。

参謀の性格は同じでしたが、配属された部署には三通りの仕事が雑居、内一つの仕事にこの折、私は失格したのだと思います。その後三通りの仕事は三部署に分かれ、私の兼務していた二通りの仕事も一つは遠方に移転、どの部署の規模も、私の入社時とは比較にならないど大きくなりました。因みに、新卒時に配属された部署の担当役員は、名目上、当時の全社の二番手でしたが、私が命じられた米国の研修旅行は、この役員の名代として。披露宴にお招きできる相手ではありませんでした。私への結婚祝いは、ご出身を偲ばせる煙草盆。

研修旅行は、有名企業各社から役員一人が参加、高級ホテル泊の団体に、名代として、入社数年の若造(ヒラ)が加わったのですから、他社の名代としてご参加の部長職から、帰国までイジメに合ったのは当然としまして、今になって考えますと、社内でも微妙な立場だったのでしょう。

 1972年 矢切のアパートから

矢切時代の写真箱に、1971年の研修旅行の際、嫁さん(結婚直前)に宛てた絵葉書が入っていました。

郵便の二点目は、十日の夜に書いた絵葉書です。米国の学者の講義を、通訳と日本の学者の解説付きで聴講。マーケティングの勉強ナノニ、営業や宣伝には触れず、価値観の変化と、生活様式がどう変わるかに終始、帰国後、報告書が「役立たず」で困りました。絵葉書には「アメリカの進んだ個人は、客観的立場から主観的内面的立場に移行する」などの記述も。

十四日、デンバーのホテルで日本からの便りを受け取っています。私の方は「なんとなく眠く、なんとなく食事が合わない」

「絵葉書を持ち帰るのは味気ないので、毎日書いては投函しています。郵便配達員もあきれているでしょう。」

サンフランシスコでは、ステーキのディナーを二度も食べています。ビフテキとパンとサラダ。一食につき1ドル69セント。169円の感覚。ニューヨークでウォルドルフ・アストリアに泊まるなんて、信じられます?

カフェテリアを嬉しがっている様子もありました。好きな食べ物をセルフ・サービスで選んでお金を払う、2ドルで十分、3ドルはとても食べられない、はじめは見境なくなくお腹に入れたが、今はほとんど菜食、日本の食事は、量が知れているから安心できる、など。

ニューヨークです。旅程の三分の二が過ぎました。シカゴでは勉強が忙しくお休みしましたが、他の都市では毎日投函しています。疲労が蓄積、考える力が湧きません。二十二時。日本からの第六報と第七報がたった今、部屋に届きました。

研修旅行では、勉強ばかりで時間も、新生活の準備で懐も、お土産を買う余裕はありませんでした。それでも一つ、お目当てがあったのですよ。何処の書店でも買えたのでしょう、しかし書名も判らず、わざわざホテルの案内係に、料理の本はありますか?

その本が The Waldorf-Astoria Cookbook でした。

今も手元にあります。1969年の印刷。色刷りはお料理の写真8頁だけ。モノクロ図版は絵や写真など20点弱。1902年に開かれたドイツ協会(?)118周年晩餐会メニューの表紙と会場、29年に取り壊された古いホテル(その地に建ったのがエンパイア・ステート・ビルディング)、1957年10月21日開催の英国女王ご夫妻午餐会のプログラムとメニュー、ダグラス・マッカーサー元帥ご夫妻など。B5判266頁 $12.50

先ほどの「料理の本」には、新しいホテルは1931年10月1日に開業、大恐慌を乗り切る米国の勇気の象徴になったとあります。ナンカいいですね~。

同ホテルでは、しばしば一日に数ダースもの V.I.P. が重なり、1963年5月23日には、パレードを終えホテルを発つ五人と新一人の宇宙飛行士、自分の誕生祝いに出席するケネディ大統領、大統領をもてなす米国で最も有名なスター八人、それぞれ別の会合に現われた二人の大統領経験者、前の英国王と米国生まれのご夫人、前副大統領のニクソン氏、副大統領、マッカーサー元帥と有名な軍指導者、……、……、および各々に関係随行するあれこれの著名人。←それぞれバラバラなのも魅力ですね~。そしてお料理が気になりません?


【らららラララめ~りか! その3】

クリスマスの季節-40-
クリスマスの季節-84-
クリスマスの季節-85-

1979年、あるいは1978年、出張でカンザス・シティに出かけた折、仕事の写真のほかに、訪問の記念として、三枚組み連続写真を撮りました。その二枚が上の写真です。

私は昭和と西暦が混在しています。年号では40代前半、西暦では60年代後半を境に、記憶が年号から西暦に入れ替わってしまいます。我ながらとても不便。

写真には、アメリカの国旗の脇にミズーリ州の旗が写っています。上の写真の手前の道路は、下の写真の道路に続いています。下の写真の右手の建物(当時のユニオン・ステーション)は、上の写真の左手前の建物につながっています。

転職直前に二度、海外へ出張したお話も何回目かの繰り返しです。稟議(りんぎ)書の予算欄は一人分で間に合いましたが、欧州六ヶ国では駐在員と社外代理人の、米国(一都市のみ)では社外代理人と地元の銀行の支援を得て、欧州では家庭的な会社延べ数十社、米国ではある社の役員全員と家庭的に、および副頭取の紹介先数社は各々の社長室でお会いしました。その折、欧州では戸建てや集合住宅に、米国では戸建てのお住まいに招かれています。

米国でお宅に向かう途中、運転していた経営者が窓を開けて叫んだ相手は、芝生で練習していたスーパースターだったのですよ。相手も手を振って挨拶。塀や垣根はなかった。

奥様同伴のパーティを、代表者の(実質の、以下同じ)ご家庭と(←お酒の買い出しにも連れて行ってくれました)、窓際を予約してあったレストランで各一度経験しました。レストランでは、代表者ご夫妻のほかに営業、生産、財務、国際各部の責任者ご夫妻。代表者ご夫妻とは、偶々居合わせた娘さん(学生)を交えての昼食も一度経験。滞在中の昼食は、各部門の責任者誰かしらが気軽に(←幼い頃から一ヶ国語にこだわっている私は気重に)同席。

代表者の奥様に案内される機会もありました。その折も、我々が海外関係者を接待する際の、ナントカランドや、温泉旅館や、夜の和洋高級料飲店は一度もなく、ただただ広い街の、歴史と表情に限られていました。


【らららラララめ~りか! その4】

19 Mar 200317 Apr 2003 までの日記

日本時間2003年3月19日正午です。

随想を十冊著わしたことで、多くの出来事について自分の考えが定まりました。小学生の登校拒否について、産業の空洞化について、環境について、就労について、失業について、棄負加の分離について、暮らしについて、宇宙について、存在について、何が大切かについて、現場についてなどです。

戦争についても同様です。随想の執筆時に湾岸戦争(侵略と反撃の戦争)が発生、その折に書き留めた言葉があります。

仕掛ける側であれ守る側であれ、避けられない戦争があります。当事者の能力や考えにも拠りますが、回避できるのに回避しない戦争や、回避に失敗する戦争もあります。偶発戦争もあります。どのような戦争にも、私は一つの想いを抱いています。

国内が戦場となる戦争が誰にとってもそうなるように、開戦の決定者と支持者には、銃後はこれからの世代に委ね、自ら現場に立ち戦って欲しいのです。書き留めた言葉は

先の湾岸戦争で、侵略側の敗戦が決定的になった折、戦場で映し出された母親の叫び「もうたくさん!」でした。

 ※

頂点に立つ資質によって、社会の方向が決められてしまう仕組みに暗澹(あんたん)とした思いです。多数の支持を根拠に就任しながら、少数意見で力を行使してしまう情況が私の理解を超えています。今問題視されているいくつかの社会は、内部に、審議を尽くし、少数意見・反対意見に耳を傾け、争点を補正した上で多数意見を採用する仕組みが欠けているからだと理解しています。頂点に立つ資質が内部の民意を力で排除、さらには外部に破壊行為を仕掛ける社会は、経済封鎖、場合によっては武力で抑えるのは当然だと思います。一つの社会が、防衛だけに専念できる世界ではなくなりました。しかし外から封鎖、外から武力を行使する判断は、何を根拠に、誰がするのだろうか。深刻な問題を抱える仕組みを破壊する決定を、深刻な問題を抱える方法で採択する矛盾。失うものは大きいです。

上の文は20日の午前5時に表わし、5時半にサイトに載せました。失うとは、「社会の内部と社会相互の宥和を支える権威と、拳(こぶし)ではなく思慮への傾斜、理知への依存」を弱める意味です。できるだけ希望が湧く話題を探します。

 ※

お茶の家元の顧問、二見先生が母のもう一人の母親だとしますと、四世杵屋佐吉さん(1884~1945)の一番弟子、杵屋佐次郎さん(後の杵屋佐冶朗さん)は母のもう一人の父親でした。佐次郎さんには血のつながったお子は一人だけ。写真中央の男の子です。男の子の向かって右の右が母。佐次郎さんは、男の子の後の大きい人です。

母は一緒に稽古、男の子を弟のように思っていました。太平洋戦争で戦死。

親を亡くす子と子を亡くす親。戦争は公平でも平等でもないですよ。痛みは限りなく避けて欲しい。我が子を戦場へ送る覚悟で、開戦の是非を論じて欲しい。

 ※

戦後に合わせて成長した私は、活字離れを率先しつつも、戦争の文学、記録、参考書に親しみました。強烈な印象は、太平洋戦争敗戦時の市民と軍隊。戦後はベトナム戦争。

政治に歴史を持ち出す際は、ヒト一人一人の歴史も忘れないで下さい。自分史は断片です。ヒト一人一人の歴史の基本は家族。いわゆる歴史は、ヒト一人一人の歴史の海の、関係の皮相に過ぎません。家族の過去と未来を見据えた世界観歴史観で、社会の舵(かじ)取りをお願いします。

 ※

日本時間3月22日午後3時。

母は、連日のテレビ画面に恐怖心を募らせています。抗議運動の演技死体にも怯えます。「衝撃と畏(おそ)れ」を意図した空爆に精神的危うささえも。私も、ヒトの資質に対する名状しがたい想いが。

極度の恐怖は、後々まで響きます。敵地にもその近隣にも、老いた父母や孫や曾孫(ひまご)がいるのでしょう。A国人というヒトは存在しないのですよ。B民族人というヒトも、C宗教人というヒトも存在しません。ヒトには様々な資質があるだけです。仕組み、考え直して下さい。

 ※

借景の演出、あるいは点の撮影角度

卒業式の季節は、最寄りの花屋さんも書き入れ時です。しかし新線工事が始まってからは、立ち寄ったことがありません。地下駅の通りに面しているため、近づくのがタイヘンなんです。開通すれば一等地かも。

幸福感に影。破壊を積極的に選択する資質、破壊の選択に追従する資質、破壊を事業に利する資質、および情報操作に(情報の捏造、歪曲、隠蔽に)未来を委ねたくありません。悲しみを悼むのではなく、希望を祝うために花束を奮発しました。

情報開示の必要性は、会社だけではありません。調査中のため実態がはっきりしないまま、閉鎖か存続かを決めるには無理があります。その無理が行使された理由もはっきりしません。事後の経済、つまりヒト一人一人の近未来の暮らしも、壇上に白紙委任したのと同じです。合議の仕組みを強めて欲しい。

 ※

先の「借景の演出」は、前にも触れましたが嘘です。写真機が動いただけで馬脚が、いえ、空缶やポリ袋や青い天幕が表われ、写真機がもう少し動きますと、東京の通勤圏一般の状態に戻ってしまいます。動画も静止画も、事実を反映しながら嘘をつきます。情報化社会……なんですね~。情報がつく嘘のため、画面の前は操り人形。ヒト一人一人が、現場から発する情報の重みが増しています。

 ※

私の執筆は息子の一人が、背中を丸めて苦しむ姿を目(ま)の当たりにしたのがきっかけです。不登校ではないですよ。三年次に発生、四年次の一時期、小学校へ通う恐怖心から、義務感に反して、体が登校を拒否したのです。当時の文集にその痕跡が残っています。鉛筆を残らず裂かれるなどを繰り返し、手足まで傷つけられた側の登校拒否を「非」として取り上げ、班単位で批判させた文集です。担任は進級時、県内の遠方の学区へ移りましたが、原因(←実に多様)を直視せず、登校拒否を難ずる風潮が、学校にも社会にもあったのです。

とり繕(つくろ)うのはやめて欲しいです学校も会社も役所も政治家も。上辺だけ繕(つくろ)った言行を、島嶼の外の、誰が評価できるのですか。

苦しむ様子は散文詩で表わしました。確か「お前のほうが本当だ」に続いて、我が身には「あんたも大人さ」と書いた筈。

 ※

稚拙かも知れません。私的かも知れません。しかし、自らの資料と自らの表現をコツコツ積み上げ、それを十年、三十年、五十年続けますと、借り物中心のサイトでは達し得ない何かが得られます。個人サイトで、具体的意図が見つからない時は、趣味以上の、子や孫に伝える資料庫が第一義かも。私のサイトをご紹介した際、頂いた返信の抜粋↓です。

拝見させていただきましたが、大変興味深い内容で、私ども社会学研究者にとっても第一級の資料になるように感じました。

 ※

戦争とはこういうものだ。」

指揮官の一人が壇上から発した言葉です。ですから開戦の是非を、事前に、充分に、合議する必要があるのです。

息子の出征は大統領が命じたからです。戦争が始まってからはテレビを見ていません。」

開戦直後に、留守宅の父親が語った言葉です。太平洋戦争当時の島嶼の父親も、多くは同じ想いだったのでしょう。

画面を通して、戦争が茶の間に入ってきます。地表のどの家庭も同じです。経済を通して、暮らしに大きな影響が現われます。地表のどの社会も例外はありません。その戦争を仕掛ける権利が、限られた国の、特定の資質に存在する根拠が解りません。

多くの国が一致して戦う場合と、僅かな国が合意を待たずに戦う場合では、被害の程度、修復の速度、要する費用、憎しみと報復の広がり、癒やしの時間ははっきり違うと思います。世界には何人のヒトがいるのでしょう。仕組みの大切さ、理解して欲しいです。二度と繰り返して欲しくありません。

鎖国下で表現された浮世絵は大海原を窓に変え、海外のヒト一人一人を魅了しました。その後、コクサイ人と化した島嶼のヒト一人一人は、鏡に見惚(みと)れ、セカイに酔い、足許の美を根こそぎにしています。浮世絵復興の新世紀第一年、一週間前に始まった戦争が、その印象を強めます。

 ※

今日は29日。満開のハクモクレンと枯れ木状のハナミズキの間をオナガが往復。香りはジンチョウゲ。ユキヤナギはモジャモジャのシラガ交じり。路地植えのシュロチクに守られミツバツツジも満開。

ヒヨドリが肥後ツバキの花を散らしています。手術を繰り返したゴルフ仲間(父の友人)が父の生前に父を訪ね、ご自分で地面に戻した盆栽のツバキ。地面にキジバト。

我が家では冬場、ヒヨドリがピラカンサの実を食べに大挙して押しかけ、古車の屋根を糞(ふん)で染めます。

今も見かける花鳥です。他国を模したテーマパーク? 日本はアメリカでもイギリスでもスペインでもオランダでもありません。関東地方には砂漠も永久凍土ありません。澄んだ水と豊かな緑が、隅々まで覆っていたのです。これ以上、潰さないで下さい。そして、始めて欲しいのです、五百年かけて、足許の美の復興を。

 ※

今日は4月9日。

遠い昔は龍閑町と呼ばれていた辺りでしょう、信用組合がありました。ある銀行の記号が付けられ、手数料も同じでしたが、十年ほど前、信用組合の名が消え、銀行の支店に変わり、さらに支店名も消え、別の支店の出張所としてATMが三台だけになり、数年前には向かいのビルに移転、ATMが二台に減らされましても、給料日を除きますと、閑古鳥が鳴いてしまう場所です。

多分、誰一人、口にしたことはないのでしょう。少なくとも私は耳にしたことがありません。しかし、私は気に入っていたのですよ、信用組合の古風な建物。

建物の堅牢さを確認したのは、更地に戻す作業を見たとき。近くでは泡期に始まった地上げが進み、戦前から住んでいた古着商一戸を除き、時間貸し駐車場の広い空間。買い取った業者が施主なのでしょう、信用組合の跡地には、13階建て共同住宅の新築工事。

人口は限りなく増えるのですか。事務所ビルも、深刻な供給不足に陥るのですか。

机上労働は再配分次第で棄負加の分離を加速、人間労働は自然労働を搾取、自然労働は人間労働との協働如何で生産性を向上できると書いたことがあるのですよ。

信用組合の、建物の瓦礫は何処に消えるのでしょう。住宅や事務所や庁舎を、取り壊した廃材や瓦礫の行方が不思議でなりません。自然労働に資する技術革新は生産性向上に役立ちますが、建物を壊した瓦礫は行方如何で、環境を破壊します。

戦争前は、足許の行く末に組合の瓦礫が影を落としていました。開戦後は戦場の報道に、両親の痛みが二重写しになっています。さらに連日の破壊の報に接して、湧いたのがこの感想です。

破壊する方法も破壊される対象も、組合解体の比ではないです。大義は環境の側にあります。総体で、環境を保全する以上の必要など何処にもないです。壇上の観念が、新世紀の必要に応じていないと思います。

私の頁はごく僅かなタグで足ります。近年は容量への配慮も低下、画像の組み合わせも自由になり簡単に「嘘」を演出、よくもまあ現実離れできるものだと呆れています。

初めて欧州を旅した昔、古都そのままの建物の、内部の近代性に驚かされた記憶があります。維持費も改装費も、建て直すよりタイヘンだと聞かされました。しかし、廃材や瓦礫は問題なく少ない筈。ところが島嶼は

古都にも建物の高層化が持ちあがる社会ですから、一般の住環境はテンデンバラバラ。共同住宅も一戸建ても、民も官も、色も形も高さも向きも、建てては壊し建てては潰し、後から後から瓦礫を出しています。

前回の連載(随想 青い闇)を、途中でやめてしまった状態と同じ気持ちになりました。気軽に軽口を叩けません。この連載の当初は、案内文に「ユーモア」と書いたのですが途中で削除、今は……

表紙冒頭のリンクもその表われです。ハッピーを装っていたのですがフラフラ変更。

父親としての姿勢と、親父さんへの語りかけを忘れていました。この連載の副題を「父と子、パリ」にします。

 ※

戦争には触れたくありません。今も気持ちは同じです。しかし3月19日正午(爆撃開始直前)に態度を鮮明にさせました。以降、飛び飛びで書き続けています。共有媒体の時代では、自己批判に必要な記録を欠いたまま、モノを言いモノを書く資格はないと思っているのですよ。

日本時間2003年4月13日正午

以下の数字は算出根拠が分かりません。聞き違いもあります。今の段階で利権を算出できてしまうのも不思議です。

社会資本の再建に○兆円要するとされています。石油は世界第二位の埋蔵量だそうです。首都では病院や学校や博物館まで住民の略奪に遭い、医療に深刻な影響が現われ、博物館では○○万点(?)の所蔵品が盗難・破壊されたと報じられています。博物館の関係者でしょう、館内で嘆いている女性の姿が、記憶に焼きついてしまいました。

確か、大量破壊兵器の存在が開戦の根拠でした。それが爆撃中に政権の打倒に変わり、今は無政府状態という報道に敵意を向けています。復興資金は開戦反対の国々にも負担を迫る一方、石油と再建事業の利権は、犠牲を払った国が手にする主張。

政権が倒れた今も、大量破壊兵器は発見されていません。戦力も弱体だったことが判りました。判っていたから攻撃したのでしょう。基盤まで覆されてしまったヒト一人一人の暮らし。子や親を失った家族の気持ち。

二つの道が見えてきます。戦勝時の利権に与(あずか)るか、開戦の抑止力を高めるか。どちらも軍拡競争と大量破壊兵器拡散の道筋です。偶発に怯(おび)える日々の再来。

所詮「勝利の拳」は一握りの自惚(うぬぼ)れにすぎません。政(まつりごと)の仕組みと政を担う資質、見直して欲しいです。

 ※

戦争に触れたくない訳ですか。学生時代は店の手伝いで忙しく、学生運動に関わる余裕はなかったです。余裕が出たのは就職してから。義務で加入させられた労働組合がきっかけでした。当時の大きな会社は、多分一般的に、当時の小さな会社より、多分一般的に、仕事も暮らしも余裕があったと思います。ですから、大学時代に学生運動を経験していた少なからずが、就職後は、政治にも組合運動にも適当に(←恐らく)付き合っていた姿を仰ぎ見て、割り切れない気持ちになっていました。

呂律の未熟が、小五までの孤独の一因だったと思っています。今も口下手は相当なもの、議論などとても無理。一方、今朝も公園を散歩の折に、重役然とした紳士が奥様(?)に戦争について語っておられました。意見は割れます。しかし、島嶼のヒトの実に多くが、優れた視点と的確な見解をお持ちですから、そのお一人お一人はもっと強く、もっと広く語り掛けて欲しいです。私の神経は太くなりすぎました。ほんの微(かす)かな刺激でも、心身に伝わってしまいます。

過去、寡占媒体を利用したお一人お一人も、戦争については新聞や雑誌を待たずに語り掛けて欲しいです。ところが、自分のサイトを宣伝するため、著名な知識人の公式サイトを探しましたところ、限りなく無に近い現実に愕然(がくぜん)とさせられました。今の私は職場を一歩離れますと、音楽なしではいられません。昔、お酒なしでは暮らせなかったのとそっくりです。

 ※

少し前にも書きましたが、私は「過去に生きている」と笑われたことがあるのですよ。文化は復古調も受けますが、過去はそうではないのですね。

我が家の文庫棚には日本史の入門書があります。それらの年表を見ますと

治安維持法公布、特高警察設置、五一五事件、二二六事件、大内兵衛・美濃部亮吉らの教授を検挙、国家総動員法、国民徴用令、物価・賃金の価格停止、部落会・町内会・隣保班整備、生活必需物資統制令、女子挺身勤労令

当時の日本には、今の民主主義も今の自由もなかったです。だからと言って、恥じる気持ちはありません。それはマッカーシズムを経験した米国のヒト一人一人が、「自由な今」を誇るのと同じでしょう。過去、島嶼のヒト一人一人は、足許の暗さを晴らすのに空襲は望みませんでした。仕掛けた側でさえ「もうたくさん!」だったのです。

争いを積極的に選ぶ資質、つまり「強い」生命力が消えることはあり得ませんから、抑止力を常備するのは当然です。今回の戦争で、その想いを新たにしました。しかし「戦争はもうたくさん!」です。現場のヒト一人一人の歴史では、勝利の拳に、ではなく、戦争を回避する状況作りと戦争を回避する努力に、感謝と敬意が寄せられます。

 ※

今日は4月17日です。事件や事故や災害であれば、発生当初から刻々と報道される市民の死傷者数と被災額が、未だにはっきり伝わりません。

ヒトも環境の子です。地球はやがてヒトも消し去ります。ヒトの有無に宇宙は関知しません。その折、存在に向かって語りかける言葉を、皆さんはお持ちですか。

破壊された市街と費消された軍備を、再建し補充するには、さらに各地で資源の費消を要し、各所で環境への影響が現われます。それらがもし(破壊と費消と再建に向けられた自然労働と人間労働がもし)、ヒトの智恵と存在時間感覚で戦争を回避、自然労働の環境整備に向けられていたのであれば、なんて想うこともあるのですよ。

壇上も当事者は、毀誉褒貶(きよほうへん)の、誉褒(よほう)だけでなく毀貶(きへん)も正面で受けとめます。その強さが羨ましい。一方、賛否に関わらず寂しかったですね~、島嶼の知識人や芸能人の声。米国の俳優二、三の声は強烈に残りました。アメリカに住まうヒト一人一人は、総じて(?)、表現力も強いのですね。

※「かかわらず」の漢字、同じ間違いを繰り返しています。関わらずではなく拘らずです。子の一人よりはマシですが、漢字も言葉遣いも知らないこと夥(おびただ)しい。私が本文にルビを挿入している理由、おわかりですね。一つは自分が読めないから。今一つは、読めない漢字に出合った読者の不便を考えて。パソコンで作文すると漢字を忘れると思っていました。しかし返って、いえ、却って漢字の勉強になります。誤字の百や二百はどうでもよろしい。先ず著わしてみて下さい。

※イラクの人口は何を参照すればよいのでしょう。例えば資料AとBでは65万人もの開き(昨年度)があります。24百万人と記述します。「再建の、周到な準備と各国の役割分担」を抜きにして仕掛けられた戦争は、24百万人の、衛生と医療と団欒を枠組から崩しています。開戦直前に繰り返された言葉があります。「準備は万全」です。しかし24百万人についてはどうだったのでしょう。現実は、粗い意思を多数が支持。弱さは無力。気持ちは一層「浮世絵復興の新世紀第一年」に。

 ※

静穏が遠退きました。この舟、何処へ行くのだろうか。

一晩で、ムクドリとキジバトがタンポポを食べ尽くしてしまい、毎朝、ガッカリを30年ほど繰り返したヒトがいます。確かに、朝は野原から黄色い花が消えています。それって、食べられた訳ではないですよね。

 ※

敗戦国の兵士も戦勝国の兵士同様「市民」です。死傷すれば、家族の痛みも尋常ではありません。島嶼のヒトは、赤紙で召集された「戦争体験」でその悲しみを知っている筈。不明でも、戦争の死傷者数には兵士の欄が、視聴者には痛みの現場感覚が必要です。……2003-04-17

5月3日に加筆↓

戦闘終結宣言(日本時間五月二日)の折に、新聞各紙とサイトから拾った言葉です。編集しました。

破壊された社会資本
放置された武器弾薬と不発弾
劣化ウラン弾の燃焼によるエアロゾル
欠乏する物資
尽きた後は見通しが立たない備蓄食糧
医師も薬も足りない(ない)公立病院
母親の不眠・貧血・食欲低下
流産・早産・帝王切開・未熟児の増加
栄養失調の子
回復を要する治安
各派の対立
新政権づくりの困難
見つからない大量破壊兵器存在の証拠
長期駐留を予定する米軍
米国の過去が育てた反米感情
中東地域不安定化の懸念
テロの火種

人命、財貨、暮らし、環境、戦費と引き換えに生じた利権の扱いもこれからの課題です。

5月4日に加筆↓

終結宣言後は、スポーツや芸能に興じて知らん顔できるのですから、勝手なものです世論とは。

現場に立とうとしない大人は暮らしの破壊に、支持を表明する資格はありません。破壊を命じた壇上は、新たな枠組みが軌道に乗るまで、現場で指揮して欲しいです。事故や災害では、一つの命も粗末にしません。生命線の崩壊には直ちに復旧の手を差し伸べます。医療も食糧も水も電気も、「事後の予算措置まで待って欲しい」は通用しません。そのことは決定前から、小学生でも解る筈。粗いです、「痛まないで済む世論」に頼る政(まつりごと)は。

5月9日に加筆↓

米が国連安全保障理事会に英などと提出する対イラク制裁解除決議案を新聞二紙(読朝)で見ました。内容は

大量破壊兵器廃棄の確認は国連から米英へ
占領統治は一年間(継続の可能性も示唆)米英へ
石油売却益の管理は国連から米英へ
国連は人道支援など役割限定へ

もう加筆する必要はないのでしょう。弱いヒトの世界に……資質的強者も少なくない社会的弱者ではなく、生存競争で、勝利の拳に辟易(へきえき)する資質の世界に戻ります。


【らららラララめ~りか! 海図】

クリスマスの季節-156-
クリスマスの季節-152-
クリスマスの季節-85-
クリスマスの季節-68-
鉄塔のそびえる村

1931年に開業した島嶼の「新ウォルドルフ・アストリア・ホテル」は新宿に聳え、同年に建った島嶼の「エンパイア・ステート・ビルディング」は六本木を見下ろし、セカイとリキまなくても世界に知られた V.I.P. が折々日に数ダースも訪れ、世界中から観光客が引きも切らず……

世界から観光客を呼び寄せて何を見てもらうのですか。経済力と技術力は先刻ご承知。では庶民の暮らし? 無賃残業・長時間労働・短期間休暇・ナントカ小屋・緑ショボショボの住環境・道行くヒトの思い遣り・幼児が自由に歩きまわれる平面・武蔵や下総の豊かな自然……。五百年ではなく千年先かも。

 ※

写真に写る水辺の青は空の青さ。

中学校の写生の授業で、屋上から描いたビルの向こうに故郷の青空。

中学校からトボトボドタドタ、歩いた先に古い建物。観た映画は「青い大陸」。青さに真っ青。

飛行場に降り立ち、入国手続きを終え、航空券売り場で押し合いましたが、コンピュータは飾りとかで、内陸の航空券を買うため北京市内へ。

この荷物、どうするの?(←私)
預ける場所はありません。このままにします。(←連れ)
嘘!?(←私)
大丈夫です。(←連れ)

航空券を手に入れ、飛行場に戻ったときも、デカイ荷物は、乗客や送迎者が出入りする広場の隅から、動いた様子もなかったです。その出張(1980年代前半)の折

青島の飛行場で、機内から見た建物は、田舎の駅舎より立派でしたが、我々を迎えたのは、広いだけで何も見えない滑走路と、乗客を威嚇(いかく)するミグ戦闘機。ほかに公司の関係者数人も。党の有力幹部の子弟で、若い娘が公司の担当。

滑走路に降り立った瞬間、戦闘機の気迫と担当者の鋭い視線。空に機影はなく、響いた轟音(ごうおん)は、映画「追撃機」の撃墜場面。

スペインで刻まれた色彩は、古い闘牛場の、赤い囲いと空の青さ。爽(さわ)やかだったのは、肌着を買いに、子と出かけた市街の夜風。

 ※

中国青島の海岸に立った感想は最初の本(随想 春の夜の、青い闇)に記しました。見えない筈の列島が、演習場の土塁(砲撃の的)に見えたのです。一斉砲火を浴びたら一たまりもありません。前線の出城としても格好の位置。

万一の備えは絶対ですが、万一が起こってしまったら、島嶼の拠点拠点は壊滅するでしょう。戦争は回避して欲しいです。何処(どこ)へ行くのだろうこの島嶼? 関東ムラ東京圏へ集中し続ける感覚も、私の理解を越えています。

 ※

国家意識を、皆さんはどのように養っています? 私は、先ず地理的配置が頭から離れません。次に、やはり地理的配置。最後も地理的配置。つまり、国家は線引きにすぎないように思っています。年齢ゆえでしょう。意識の変遷はめまぐるしかった。

巨大な軍事国家が、いくつにも分裂した経緯は記憶に新しいです。多数の国家が、共通の法的規範で統合しつつあるのも現実です。平和の回復と維持には、地表の絶対多数が加盟する国家の連合体がその職責を担っています。

国家の色彩が色褪せていることに気付いています。国家としての意思なんてありませんよ。お金と情報操作を駆使、人気投票に競り勝った資質が折々の刹那の意志。政壇の資質が替われば、同盟相互の進路も変わるのは子どもでも解ります。ただ、一方的な依存関係ですと、相互にとって恵みが不足するかも。

一部の国家を除けば今の世の中、一色だけの国民の精神は見当らないでしょう。限られた国々の突出を抑え、地表規模の連合の、平和回復の戦争に参加する精神風土が、島嶼でも育つとよいですね。どこの国家も、兵士が戦場に出る時は、政壇の精神に迎合するのではなく"命令ですから"があたり前では。

歴史的情況が、国際社会で、島嶼を類稀(たぐいまれ)な経済貢献国家=人的貢献国家に育て、途上の「現場」から、信頼と感謝を寄せられていると思っています。同時に、節度の欠如、環境破壊、棄負加の分離も結果、特に予算本位の分野では、闇部が巨額化する危惧も深まりますが、それは軍事力を背景にした金融資本も同じでしょう。

ムラも国家も、政は登壇前に、国際社会の辺境なり僻地に赴任して、企業活動に従事して欲しい気持ちです。先ず水と食糧、先ず薬と医療、先ず衛生、先ず電気、先ず……。非軍事分野の人的貢献に過剰はない筈。職の環境整備は自助に不可欠。

 ※

溜め息は一昨晩(九日)も。涙国(るいこく)は歪(いびつ)な大統領制に変わっていたのですね。過程の議論は懸案も反論もよく分からず、上意が直接下達される政を理解するには、報道関係者の質疑に待つしかありませんが、本当に哀しかったのは、濃色限りが隊列を組んで固まってしまい、譴責処分を受けた一隊が、連隊長から絞り上げられる風情にです。

尊敬語や謙譲語を使う政壇です。利害を共有する代議員に期待するには限度があると思います。亜種大統領制では、報道関係者が実質の代議員では? なのに鋭さも丁々発止も感じられない。昔、ありましたでしょう、何処かに連れていかれる子牛の歌。ひね過ぎは認めますが、あの姿に我が身を見てしまうのですよ。お勤めの皆さんの通勤姿にも、我が子や我が孫の明日にも通じてしまう? 青い空のように、自由で率直な世の中になって欲しい……

 ※

歪曲(わいきょく)や捏造(ねつぞう)抜きでも、情報を的確に伝えることは、極めて困難なことなのですね。説明の言葉不足は困ります。情報を伏せられた政官の営為は、高度情報化社会発展の枷(かせ)になります。情報の受け手、つまりヒト一般が、解らずに立ち止まってしまうか、判断を誤りますから。

涙国も采国も、一度最高位に達しますと、絶対権を行使できてしまうのですね。これが2003年の想い。

我々大衆は、総論の賛否で一票を投じますが、各論では(要件ごとの執行では)意向を反映する仕組みが機能不全に陥りました。総論で競り勝った最高位に、結果を見るまで白紙委任状態でした。極めて重要な課題で、議会が機能しない現実を目(ま)の当たりにしたのです。

壇上の情報操作と壇上の資質如何で、代議制度は封じられてしまうのですね。最高位と競える下位は、少ないと思いますよ。我が身の行く末を顧(かえり)みないで、質問できる報道関係者も多くはない筈。英傑の出現を待つのは、宝クジ一等を期待する暮らしと同じ。

競争の必要性は、政官も例外ではなかったです。闘争ではありません。独占状態を牽制(けんせい)する仕組みです。足許の暮らしは足許の政府にお願いしたい。中央の顔色を見ながらでは、自助自立はできません。単純なほど解りやすい。

今の地方分権や今の市町村合併は最悪でしょう。市政を透明にして、県政を明解にして、国政を簡素化しても、皆さんは何がどうなっているか解ります? 法律も、規則も、制度も、組織も、機関も、庁舎も、市単位、県単位、国単位に在り続ける訳ですから、学ぶだけでも仕事に響きます。そこにお金と利権が加わります。

暮らしの独立ムラ五つ八つで、暮らしやすさを競って欲しい。暮らしやすさの競争は独創も模倣も歓迎されます。内院で各ムラを法的に統合・整合性維持。外院で統合体の外交軍事。内院も外院も重要な決定は、ムラ長(おさ)全員の討議を経て。

 ※

今朝(13日)は晴れ。吐く息が白かった。

伏魔殿に屋上屋を架す。

幽霊とは馴染みですが、魑魅魍魎(ちみもうりょう)との付き合いは避けたい気持ち。道州制も、現在の分権や合併と同舟ですと、我々庶民の暮らしはよくなるのかな~?

どこへ行くのです、この舟?

制度改変を繰り返し、漂(ただよ)う先は舟の墓場?

なぜ実施するのです、改革とか分権とかを。朝令朝改の、教育の枠組改変に似てません? あるいは一勝負ごとに牌をかきまわす麻雀そっくり?

暮らしの政府は、壇上の思いつきや歴史的大見得のためではないのですよ。庶民が納める税金を、卓の牌感覚で扱わないで下さい。先ず、日々壇上で費消する公金を、千円単位で(一円単位は情報過剰)明らかにして下さい。

涙国の今は、亜種大統領制と思っていましたが、変種株式会社制だったのかも知れません。単独経営責任者が思いついた案を、側近に命じて調査立案、機能不全の旧式ヤクイン会議で、尊敬語謙譲語の議事録を書き足す儀式を終え上意下達。

変種株式会社制の個性は、入金がダブダブしている点にあります。金種は庶民の血液。子を育(はぐく)む親と、育まれた子が黙々と働き続けるギリギリの稼ぎ。涙国でも絶対多数は、そうなのですよ。

政壇のコスト意識の欠如は、人気投票がそうさせるのでは? 地方分権も市長村合併も道州制も、人気投票の枠組を改良しませんと伏魔殿に屋上屋。

制度を変えれば、ヒトもお金も振り回されます。効果はまったく未知。お金の垂れ流しと暮らしの混乱さえも。未知の渦中で、次の調査にサッとお金、次の策にドサッとお金。

年金も削るというお財布の、何処からお金が湧くのです? 内外の大舞台や、歴史を画する催しや、後々まで響く改廃には闇雲に巨富を投じて偉功づくりに励み、庶民の暮らしからは搾れるだけ搾る影が見えてしまう。

亜種大統領制には、無用なモノが少なくとも二つあります。ギインとギカイ。変種株式会社制には、欠けているモノが少なくとも二つあります。自助の精神と競争相手。壇上の関係者全員の日々のお金が、庶民の家計簿並みに倹(つま)しくなりますと、政壇にもお役所にも、親子の感受性が蘇ります。

 ※

涙国の政壇では、あれこれ不備を批判された場合、謙虚に耳を傾けるのが日常ですか。諌言(かんげん)には、不興で応じるのが克己前のヒトの性(さが)では。采国も、例外ではないのかも。

会社の上意と世の中の暮らしに直接の関係はないです。お金の出所も民からではありません。経営者の上意が尊重される所以では。政(まつりごと)は違います。今の戦争も、もし上意の突出を回避できていたなら。

政党の数とは関係ないと思っています。旗本道州八人衆を従え、涙国に君臨する亜種大統領の椅子なんて厭ですよ。涙国も采国も「交代云々」ではなく、交代した後の政権の、壇上高位の舞い方と制御の仕組みに、検討の余地があるのでは。

情報操作を巧みに行い、上意の標高をさらに高く据えますと、与党内の声さえ弱まってしまう傾向は、二大政党では解消できないと思っています。

皆さんはよくお解りですね、選挙の際、政党が掲げる各種文言を。年金? さあ? 年金を理解するだけで何週間もかかります。税金? 何がどう変わって、自分の懐がどうなるのか、税金を納めた後でも解らないかも。検討の過程から解りやすい言葉で……。言葉の意味さえ、報道の解説を待たないと解らないのですよ。

マ……なんとかという言葉も、何と言えばよいのやら。マ……なんとかは約束だから、政壇に登ったら押し進めるというのはヘンです。議会は無用と言うのと大差ないのでは? 政壇もムラ相互で競って欲しい。

 ※

お濠の写真は「異邦から」とは独立させてあります。都心の最も美しい場所。歴史的象徴は、いつまでも大切に。

我々庶民も、家庭資本と風土資本を、より高度に蓄積したいですね。新世紀の課題は政壇にもあると思います。涙国も采国も、克己して欲しいです、大見得好み勝利の拳(こぶし)仕様オレガ資質を。例えば、涙国外院の対外代表は、ムラ長(おさ)の輪番制など。








|