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2005-02-22

馬力が我が家に到着した日

二歳から小六まで住んでいた我が家は私道の奥です。瓦屋根のついた観音開きの門は武家屋敷を思わせますが、これは実はこけおどしで、門の閂は、家屋側ではなく私道側につけた方がサマになる、というほど我が家は粗末で湿っぽかった。家が建つ前は牡丹杏の果樹園と、幅半間ほどの小川があったとかで、南向きの庭の東西に走る水溜まりで、メダカをすくったり、かい掘りをして遊んだ記憶があります。

庭には牡丹杏が一本、幹が折れたまま立っていました。この牡丹杏、すもももももの例に漏れず、春になると桃の花が咲き、鶯が訪れ、実をつける大切な食糧倉庫、なんであんなに酸っぱいのかと、文句も言わずに食べました。

隣家との境には茂ったグミがありました。このグミは登れるほどしっかりしていましたので、どの家に属していたかは分かりませんが、熟した実を登っては摘まみ、同様に所属不明ということで、旬のイチジクにも困りませんでした。

サザエさんの玄関を上がると、お道具が天井まで詰まっている明かずの間、つまり子どもの秘密の遊び場。明かずの間は南西の角にあったので、日当りが良すぎてお道具には不向きですが、人間様には最適なので、お道具に限りなく愛着を持っていた祖父の死後、値打ちを知らない両親が、「鑑定団」に依頼することなく処分した経緯も理解できます。

明かずの間の隣りは六畳間(←引き上げたときに一家が暮らした部屋、改装後は茶室兼客間)、北側には台所、風呂場、手洗いが並び、六畳間の東に同じ広さの茶の間が続き、その奥の南東の角が八畳間の寝室です。茶の間と八畳間は襖で仕切られていましたが、八畳間には茶の間に接するように、子どもの夜具が敷いてありました。

三歳の頃から就学後までの六年半(←実際はもっと長期)、加減を見ながらとはいえ、寝床に縛りつけられる日が続けば、子どもは荒れるのが自然です。しかし結核性の場合、それも敗戦直後の食糧事情で、表で飛び跳ねることを許せば、とても無事では済みません。自由に焦がれて荒れる子とひたすら平安を祈る子。ある日の母は、下の子を抱きしめながら、いつまでも体をゆすっていました。

母が疎開先を引き上げたのは、敗戦後しばらくしてからですが、母と下の子の栄養失調も長引き、私は小四になっても、まだ幼児の歯並びだったとか。

母が疎開先から戻る時、父の郷里に預けてあった家財用具を運んだのが馬力です。馬力とは、馬をつないだ荷車のこと。人が引ける程度の荷車に、家財を積んでもまだ空きがあったので、薪を一杯積み上げ、富士から我が家まで届けてもらったそうです。

父のすぐ上の兄の子、つまり私の従兄弟は、バブル直後に都内の事業所用地を相続した結果、税を払えず、事業所の土地と建物を売却してなお足りず、田舎の土地も一部処分、都内の事業所用地で営業していた生業の会社を清算、母が疎開先を去ってから五十年目に、還暦の若さで富士に引き上げました。その折はディーゼルトラックが現代の馬力。

富士山の裾野は広大です。東海道の馬力に頼んだのでしょうか。千本松原から三島を通り箱根を越え、小田原から二宮、大磯、平塚、藤沢、そして横浜、川崎、大森、品川----。馬力が我が家に到着した日、両親は心からほっとしたのだと思います。

 ※

中学に進学する春、引っ越した店(神田の繊維問屋)は二階に3室。応接間には大商社の繊維担当や、新宿に拠点をもつ専門店チェーン、紡績会社や生地屋や同業者が訪れていましたので、襖一つで仕切られていた隣りの住人は大迷惑。応接間の隣りはPタイル張り。屋根裏の倉庫が落ちないようにと、太い鉄柱も3本ほどありました。木製二段ベッドが1つ、事務所用木製机と事務椅子が2組、そして箪笥と食器棚兼酒瓶置き場。この部屋は繁忙期になると商品が山積みになりました。

襖の向こうには茶の間兼両親の寝室。それに台所が当時の居室の全容です。戦前からこの地に親しんできた大人には、職住一致が住みやすかったかも知れませんが、私は今でも武家屋敷門に未練があります。

店は都電の駅前でしたが、これがまた頭痛の種。朝一番の、あるいは人通りの絶えた夕食時の、車輪の金属音がいかに不快かを知っていれば、都電に郷愁を感じることはありますまい。都電廃止(←決定がいつかは不明)に喜んでいましたら、今度は営団日比谷線の地下鉄工事。当時の掘削機は、捻じ込み式ではなく、頭から打ちつける方式でしたので、衝撃音に加え、建物全体が絶え間なく振動、耳栓など役に立たず、高校の通常勉強も大学の受験勉強もとても無理という御墨付をいただきました。

商家での最大の遊びは家の手伝いでしたが、世間では手伝いは遊びには含めません。では次はとなりますと、映画です。最寄りの映画館は、神田駅ガード下の成人映画しかありません。高校生は立ち入り禁止なので、さらに繁華街を探しますと、上野か銀座が目につきます。上野は映画館の数が少なく、上映作品の傾向も限られましたので、行きつけは銀座周辺。つまり京橋、東銀座、銀座、有楽町、日比谷のロードショー館。

日曜の最終上映時間が狙い目でした。当時はこの時間に入館しますとと、どんなにヒットしていた映画でも自由席に坐れました。早い夕食を自宅で済ませ、行きは電車で、帰りは徒歩で、観てきたばかりの映像を反芻、感動に浸り、火照りを冷ますには、銀座から神田までの散策が丁度よかった。日曜も時間が時間なので、車も人通りも絶え、中央通りを歩きますと、街灯が気だるさを増し、虚無の気配が忍び寄り、歩くのに頽廃的な喜びを覚え、店に着くのが零時を過ぎることも。

店の者を起こさないように入口を開け、階段を上がり、Pタイルの感触を確かめながら、今夜の薬壜を引き寄せるのです。ひどい痛みは、鎮痛剤も吐き気の原因になり、吐くとさらに痛みが加わり、寝床では足りずに、畳の上や台所の床を転げまわる他に身の処しようがありません。七転八倒を数日繰り返した後に、私の思いついた療法は、全身の力を渾身の力で抜いて、クラゲの気持ちに感情移入する、以外に当時は、痛みを和らげる処方はなかったのでしょう中学生や高校生に、強い鎮痛剤を施すことはできますまいから。 体質的には弱い方なので、一生の予定量を超えたと自覚した今(1997年)から七、八年前に、酒精の摂取はやめました。今の適量は麦酒5本です。えっ? 多いですって。いえいえ、一年間合計の摂取量です。

早朝にランニングする心地よさを選ぶか、夜ごと夜ごとの酒宴を選ぶか。一日は24時間に限られますから、二者択一の答えは明解。因みにお酒の渇きの大部分は水分の乾きと同じである。これが私の持論なので、お酒を飲みたくなったら、おいしいお茶をガブガブ飲んで、大した苦労もなくやめられました。お酒をやめてまで走る必要があったのか? 都心を走るつもりはありません。爽やかな早朝に澄んだ緑野を、一人で無心に走るのが、必要ではなく好きなのです。

……編集中記 【その84~その91】より

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