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2005-02-22

和裁の点数

神田の祖父の店にも徴用の調査が入っています。既婚女性は徴用の対象外でした。黒ずんでいますが、今でも母の、古流と江戸千家の看板が残っています。師範免状があれば徴用は免れたそうです。なぜお茶やお花が戦時に役立ったかは、今一つわかりませんが。

母には和裁の免状(表札大の木の札)もあります。当時の和裁はキモノだけでなく衣服づくりそのもので、和裁が銃後で役立ったのはよくわかります。和裁の「免状」は申し分なく徴用の対象外。

室町の百貨店の和裁部(同店の着物を、自前で仕立てる縫製部隊?)の主任Sさんは、歳を理由に退職を認めてもらい、仲御徒町で開業、地方出身の娘さん十五人ほどを住み込ませ、芸能界や花柳界の着物を仕立てていました。Sさんには祖父も仕立てを頼んでいた関係で、女学校二年次と卒業後の一年間、母は和裁を習い、Sさんから和裁師範を許されています。

当時の市街では、着物を縫う仕立屋さんが、近所の娘さんにも和裁を教えていますが、街の仕立屋さんには、免状を発行する資格はなかったそうです。格式ある染物屋さんが抱えていた和裁職人は伝統工芸の技術者で、街の和裁教室とは無縁。

Sさんの仕事場のお昼は、ご飯と、煮付けた鰯一匹と、僅かな青菜とお新香程度。和裁は胸を圧迫する長時間労働でしたので、住み込みの娘さんは痩せ細り、結核がはびこる職場でした。

母の女学校でも一、二年は週一(?)回、三~五年は週二(?)回、和裁の正課があり、卒業年次は教室毎に和裁の点数を競ったそうです。縫い込んでいた母は和裁の先生に指示され、和裁の先生が受け持つ教室を手伝ったところ、点数がその教室に加算され、釈然としない思いを経験しています。

卒業年次は和裁だけでなく、学年一番(答辞を読む人)も自分の教室から出そうと、担任の先生同士も競っていたのです。算盤が出来た母は担任の先生から、クラス全員の成績計算を頼まれています。その折、和裁の点数が持ち去られた経緯も聞かされています。

五年次の白のネルの傷病服はなかなか仕上がらず、一学期でお終いでした。肩章づくりは(フェルトに階級章を縫い込む作業は)女学校のミシンが遅く、こちらも和裁の先生に指示され、神田に持ち帰り、母は足踏みの工業ミシンで三日に一度、風呂敷一包みを仕上げ女学校に持ち帰り、教室全員でアイロンをかけ陸軍へ納品、それを一年続けた結果、陸軍から女学校に感謝状が届いています。

……クリスマスの季節-16-より

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