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2005-02-22

風呂敷包みより軽かった

また、間違えました。長唄のお師匠さん(佐次郎さん、その後、次郎は別の漢字に)が芸者に教えたのは月に一回、ご出身の神戸に戻った折、ある検番に限っていました。松竹を脱退した家元(佐吉さん)は、長唄単独の表現を求めていたのですから、一番弟子の佐次郎さんがお稽古ごとに向き合う余裕はなく、素人のお弟子はとらなかったと聞いて、無知な筆者は、十歳前後なら半玉と思い込んでいたのですが、撥で小突いたのはお師匠さんの関係者で芸者さんにも教えていた女性(本職)。「舞台写真」の演奏している子らは、佐次郎さんのご子息と母を除き、佐次郎さんのお弟子(本職)が抱えていたお弟子さん達。

お師匠さんが東京で──当初は神田で、その後は新宿で──教えたのは本職と、本職を志すいずれも「男性」のお弟子だけです。母は例外でした。当時の家元は、某大臣のご令嬢から是非にと頼まれましても、素人には名取りを許さず、母に「名取りを」とお師匠さんから持ちかけられたのは異例。当然、「本職に」が前提でした。当時の都新聞には「トミコノ声ヨシ」などとコのついた評が載ったことも。

ほかにも補足や訂正があります。二件のお見合いでは母は知らされないまま着席。縁談は他に六件。いずれも祖父が「店を継がせる」を理由に断わっています。父のお見合い時は、父の勤め先が「鉄鋼会社」は誤りで、「和紙の統制会社」が正解でした。人形町の浪花局ビルの、隣りの三階建て営業所。本社は静岡県。父の職種は珠算と演算の教授。紙の供給が途切れて会社は閉鎖。次いで静岡県の鉄鋼会社の東京営業所に勤務。銀座の松坂屋裏手の事務所。所員は1名、つまり父だけ。室町の、銀行本店二階の海軍省(出先機関)が営業先。東京大空襲で父の事務所も焼失。

父の兄弟姉妹が確定しました。姉三人、兄三人、生まれてすぐに亡くなった弟の計七人、父を含めますと八人でした。オオミヤのネエサンが混乱の原因です。埼玉県にも父の姉が住んでいると思い込み、久しく話が噛み合いませんでした。オオミヤとは富士宮、だったのですね~。

神田の商家では、後継ぎがない場合、養子をとるのが普通だったそうです。ご自身ご養子だったBさんにもお子がなく、Bさんご夫婦は養子をとっています。現代の商家も同じでしょうか。

女の子だけの場合は婿養子。しかし、やがて大学を卒業する小学生の弟がありながら、次女(長女は死亡)に婿養子をとる例は、先ずなかったと思います。詳しく触れる触れないは別としまして、背景は私なりに理解できています。根は、大正時代の医学の水準。

関東大震災の前年、九歳で亡くなった母の兄「ナオちゃん」の病気が治っていれば、私は存在しませんでしたし、トミは佐次郎さんの右腕になっていたかも。

子は鎹(かすがい)になり得ます。反対に、二物を与えられた九歳の後継ぎが亡くなれば、夫婦に生まれた傷口は、容易には癒やされません。

風呂敷包みより軽かったそうです、母が認識していた婿養子の立場は。娘の意向に関係なく主人の気持ち次第で、離縁されてしまったそうです。妊娠中の母は長男を連れ富士に疎開、祖父一家は菅野に疎開、父は真間から通勤していた戦争末期、祖父は祖母と父を呼び出し、婿への財産(戦後は紙屑同然)の譲渡を保証する証文を手渡しています。父への信頼が増した祖父が、養子の不安を除く配慮。しかし戦後、祖父が亡くなった直後に祖母は父を呼び出し「こんな証文は意味がないから破ってしまおう。ヤッチャンもそうしておくれ。」 訴訟の地均(なら)し。

齟齬は両親の結婚直後から生じています。兄姉の多かった父の縁者が入れ代わり立ち代わり新居に訪れ、母に「オトミ! アレナサイ! オトミ! コレナサイ!」とやったんだそうです。東京の下町では考えられない親戚付き合いに、祖母が本気で怒ってしまった。

伏線がありました。高田馬場の下宿に住まい、大学に通っていた父の甥が新婚宅に一ヶ月寝泊り、飲み食いを続けたのです。

祖母の手前、父は針の筵(むしろ)? 茨の道? さあ、どうなんでしょう。何しろ寡黙でしたから、確かなことは永久にわかりません。憶測はやめましょう。証文は破棄されましたが、写真が残っているのですから。

……クリスマスの季節-14-より



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