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2005-02-22

父親って孤独ですね

水郷と呼ばれる稲作地帯はいくつもあります。その某所での鮒釣りに、父に連れて行かれたことがあります。

父は昭和二、三十年代、軍需工場の得意先の系列だったのでしょう、日本橋に所在する某銀行本店の貸し金庫を利用、証券を出し入れする際、中学生の私を連れて行きました。暗黒街の洋画で見たような金庫室に、父一人では心細かったのです(←嘘)。

水郷地帯の鮒釣りは取引先工場の招きでしたが、私だけでなく父も釣れずに、舟で渡してくれた案内人だけが大きなマブナを釣り上げていました。お昼は特大の握り飯、帰りは取引先工場のお宅で鯉濃(こいこく)をご馳走になりました。流石です、水郷地元の川魚料理は。当時は温かかったですね。その後の流通革命の進展を、さらにその後の空洞化を、誰が予想できたでしょう。後者ではこの取引先工場も廃業させられました。

父親って孤独ですね。伝わって来るのは温もりだけです。抱えている荷が重ければ重いほど、内に秘めてしまいます。

疎開先から引き上げた時、一歳半の私は這い這いも出来ませんでしたが、満三歳の時は、お米の配給の行列待ちが長引くと、先に帰りなさいと命じられ、入り組んだ三百メートルの夕暮れを一人で帰ったそうです。

お風呂の薪は、やはり石炭に替わっていました。薪を切ったのは父と母ですが、私も鉈(なた)で断ち割りました。

一日は煉炭を熾すことから始まります。マッチと紙で点火、空気を調節して一日持たせる。点火直後は火力が変わりますので、湯沸しや飯炊きの順序が決まっていました。煉炭で煮炊きする手順も富士の姑の知恵。冬は炭を炬燵(こたつ)へ。灰を被せて二、三個の炭を一日持たせる。炬燵はそれだけで温かでした。煉炭コンロの置き場は台所入り口の狭い土間。

台所の床板二枚を持ち上げますと、一升瓶やビール瓶に入った醤油や食用油と、醤油の空き樽に漬けた糠味噌と、野菜と、穀類と、缶詰などあらゆる食糧の収納庫。交番近くに八百屋さんができるまでは、野菜は宮久保から大八車で引き売り。真間の裏手には駐留軍払い下げ(?)物資を売っているお店も。当時の我が家には晩酌の習慣はありませんでした。

台所の廊下側には冷蔵庫。氷室の上段と、食べ物を納める中段は観音開き。下段は水抜き。この冷蔵庫が曲者で、お昼の缶詰の食べ残しを容れておき、夜に食べたところ、一家全員食中毒。

冷蔵庫の氷の補充は病み上がりの父の役割。私鉄の駅近くの氷屋さんに自転車で出かけ、藁(わら)で包んだ氷を縄で括って帰ってきました。

それにラジオ一台と新聞一紙だけでしたが、家族の団欒が滞ることはなかったです。

……クリスマスの季節-8-より

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