本郷のお医者さま
葉巻で黄ばんだ白いおひげ、威厳に溢れていましたよ。葉巻は不養生ではなく、ご自分の肺のご病気の、患者への影響に配慮したためと聞かされています。描(えが)けたら描きたいです、指も、お顔も、診察室も、薬棚も、間違って入ってしまった暗い書斎も、外国語の蔵書も、待合室も、建物も。
薬学の博士号もお持ちでした。レントゲンなど検査の折は、ご自分の研究室のある大学を利用。戦前は庶民が診ていただけるお医者さまではなく、戦後も(いつ頃?)京都の資産家の往診謝礼が二十万円! 待合室の噂が医療費算出の根拠でしたので、あながち誇大とは言えません。
戦争が人生観を変え、一般も診てもらえるようになったそうです。占領時は駐留軍の将校に部屋を貸した、その関係からでしょう、禁制の医薬を入手、露見して米軍憲兵に訊問され、幸い重労働は免れたそうです。
風邪や腹痛は近所の先生でした。専ら父と兄がお世話になっています。本郷のお医者さまの、ご指示とお薬を地元の先生に伝え、うまく連携が保たれていました。
父は我々兄弟に栄養注射を打ってくれました。結核性疾患の兄も、発育不良の私も栄養注射が命綱。やがてペニシリンもマイシリンも父が注射。兄より先に結核を患い、数年置きに突発性の病気を患った父の注射は母が打ちました。アンプル入り数種類の栄養剤(とても綺麗)、太い注射器(見たくなかった)、熱湯消毒(沸騰が執行の合図)、部位は太股、期間は限られていましたが、衰弱のひどい時は毎日注射されましたので、股がしこって腫れ上がり、脚を引きずって歩いたことも。兄の病気は六年生の時、お医者さまから処方されたヒドラジッドの錠剤で完治。
父は往診に来ていただいたお医者さまから、「これが最後です、どうぞ、打ってあげて下さい」と言われ、胸部の皮膚を摘まみ上げカンフル注射、それが祖父の臨終です。
地元の先生の記憶がありません。学校の健康診断を除きますと、私が地元の先生に診ていただいたのは疫痢の一回程度、私が病気になった時は、父の注射(栄養剤と抗生物質)が治療でした。父の人柄を気に入った本郷のお医者さまが、よく教えてくれたのですが、父とお医者さまの接点も、私には記憶のかけらもありません。
本郷のお医者さまの後添いは、神田の店の斜向かい、古着商の娘さん(ご結婚前は芸者さん)でしたので、そのご紹介で終戦前後から我が家も受診。お医者さまのお嬢さまは成人後、何かの理由で亡くなられ、我が家が駆け込んだ頃の看護婦役は、母も見知っていた奥さまでしたが、お医者さまは聴診も注射も点滴も、大概はお一人で何もかも。
お医者さまが亡くなられた数日後、K薬局の薬剤師さんが神田の店を訪れ、我が家のために調剤したことのある自筆の処方箋を十四、五通、置いて行ってくれました。
K薬局の薬剤師さんは、お医者さまの代わりもご紹介してくれました。やはり大学に研究室を持ち、大手一流会社の嘱託医をなさっていた方で、神田の診察室にお出かけの際は、西欧の黒塗りの高級車が送り迎え。
父の結石が治まってからも四半世紀は、私が症状を引き継ぎました。最も激しかった痛みは中学時代の最初の一撃です。最近は書く熱意も冷めましたが、三日三晩から一週間ほど、神田二階の居間と台所を際限なくのたうちまわり転げまわった、痛み止めの注射が嘔吐を誘い、嘔吐の衝動が激痛に輪をかける、痛みが去った瞬間こそ、平安という言葉がぴったりでした。奔放に駆けまわった環境から一変、神田に越して、運動から切り離されたのが原因と思っています。
代わりのお医者さまは私の背中を強く押してから「毎朝お小水を調べ、血液の酸性度に気を付けることです」とおっしゃるほかは暖簾に腕押し、稀に訪れるご重役然とした来客以外、患者がなくお暇だったのでしょう、診察室では嬌声に応えるご様子でしたが、それが綺麗所とのお付き合いと知ったのも昨日今日。
私の鎮痛治療は、両親が懇意にしていたご近所の開業医にお願いし、代わりのお医者さまには私の方から遠慮。程なく亡くなられ、数日後、本当の奥さまから届いた紙片数枚には、お医者さまが過去に診たことのある有力者何人かの不行跡が記されていました。
……クリスマスの季節-5-より
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