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2005-02-19

市川市菅野から千代田区神田へ

料理の才能の話を書き忘れています。小学校に入った頃、自分で作った料理が最高に美味かった。真似ただけなんですから、本格的に習っていれば傑出した料理人になれた筈。自信あります。

作り方を教えます。お湯を沸かし、生卵を殻を割ってお湯に落とす。頃合を計って掬い上げ、醤油を垂らして完成です。お年玉? 落とし卵? そんな名前、あったのですか。

テレビ以前は古いものがありました。衣桁(いこう)と、六畳間と八畳間と茶室の、雨戸・ガラス戸・廊下・障子。

市川の家は、外から向って右の木戸は玄関に、左の木戸は勝手口に通じていました。

玄関の、廊下を隔てた南側に明かずの間。明かずの間はその後、応接間に。

廊下を東に折れた両側に台所と納戸。納戸は後に茶室兼父の甥姪の受験宿舎。

台所の東隣りは風呂場。ソコは玄関の西隣りに風呂場を増設後、お手伝いさんの部屋に改装。

廊下の正面は六畳間。

左に折れるとお手洗い。汲み取り式の大小各一。

右に折れ、六畳間を庭側から迂回すると八畳間。

改装前は、明かずの間と、納戸と、六畳間と八畳間は庭側の廊下で繋がっていたかも知れません。改装後は、茶室の南側に孤立した廊下が残り、文鳥の番(つが)いを飼っていました。

文鳥は神田に越したある日、台所の窓から逃げてしまった。神田では昼夜を問わず多事多難でしたので、逃げた経緯は判りません。

私が神田に越した当座は(公立中学に進んだ春は)、通いの事務員数人のほかに、住込み従業員十五人、住込みのお手伝い一人、それに我々の合わせて二十人が、敷地二十八坪の一階と二階に寝泊り。土一升金一升の問屋でしたから、店のお手洗いは和式の水洗便器一個限り。路地裏の裁断場に水洗便器がもう一個。後日、店内の、裏通りに面した階段下に水洗便器を一個増設。


写真は衣料品製造卸問屋の店頭
1958年頃の神田
周囲には木製の製品棚が天井までギッシリ
店はコンクリートの土間に畳の床
夕刻には店を閉め
裏の路地でキャッチボールか縁台将棋
夕食は二階の食堂
食後に屋台のチャルメラ
ウチが水の補給場所だったのです
団らんのひとときを経て
皆は畳の床に布団を並べ深い眠りに
SさんだけK大学通信教育課程の勉強
両親はもっと遅くまで仕事


店のお手洗いはお客さまも利用。仙台など遠隔地から来店され、半日ほど店で過ごすお客さまも珍しくなく、お弁当持参のお客さまにはお茶を淹(い)れ、店内で召し上がっていただきました。

写真はお得意さまの招待旅行
1957年?
サービス券方式
前列正面が両親
熱海の青木館にて
新館?のこけら落しに
交通公社のNさんを介して館から頼まれたそうです


市川の六畳間と八畳間は、茶室より北に一間ほど引っ込んでおり、敷地全体も南東向きで午後は日が当たらなかった。

神田では、早朝や夜更けの出入りに気遣いました。早朝に出かける学校行事があります。有楽町や日比谷の映画館へは、休日の最終時間に立ち寄りました。あの時刻は空(す)いていたのと、人通りの絶えた繁華街が好きだったのです。

私の出入りで皆を起こす訳には行きません。店頭は大きく重いガラス戸と、鉄製横引きの扉が出入りを妨げ、裏の二ヶ所も重いシャッターが下りていました。

襖(ふすま)の開け閉めとは違います。そこで、バラックを本建築に建て替えた際に、増設した一間幅の扉に注目、シャッターを六十センチ持ち上げることで難題解消。

まだ問題が。閉店後、配達用の自転車が隙間なく並んでしまい、一間幅の扉が塞(ふさ)がれてしまったのです。自転車に這い上がり、荷台を伝わりながらの出入りは、脚が捩じれたり擦(こす)れたり。

市川から越す前の神田の店では二年ほど、魚屋さんの姪御さんがレジを打っていました。お金を扱うには信用が要りますから、魚屋さんに紹介を頼んだのです。当時は肉に縁がなく、魚屋さんへの依存度が増したのでお願いできたとのこと。

御用聞きは神田が圧倒。店の裏手で、地方に出荷する商品を梱(こ)っていると、魚や野菜の御用聞きが姿を現わす。両親は往々、斜(はす)向かいの四階に居たので、梱るのを中断、呼びに行きましたよ、今晩のオカズはナニカイナと思いながら。

梱包は中学時代はテレビに匹敵する娯楽で、考えられる唯一の運動でした。

冬の縁側の日溜まりから、夏雲の過(よぎ)る甍(いらか)から、依存の世界へ引きずり込まれた、半世紀もの長きにわたって。

肌で感じ、自分で歩き、一人で想い、自ら表わすのを止めてしまった。



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