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2005-02-16

訴えたかったのです、昔の母にNさんは

【銭湯】戦前の神田の店にはお風呂がありませんでした。遠縁のYさんの店にあったお風呂は、偶々その家が旧家であったという特殊事情です。祖母は白木屋で毎月散財、やがて買うものがなくなってしまい、外商員相手に無駄話で時間を潰したほどですが、日常の生活は当時の問屋一般と変わりなく、祖母の一家は従業員同様、近くの銭湯を利用、湯上がりには神田駅のガード越しに、富士の雄姿が見えたそうです。銭湯通いの件は、母は女学校では口にしませんでした。日本髪に結うときも銭湯に行くのですが、母は挙式の二日前、銭湯では可哀相だからと、Yさんがお風呂を貸してくれたそうです。成功しても「何様然」は野暮の骨頂、母の幼馴染は向こう三軒両隣、別け隔てなしでした。

【別れ】古着卸の常設市場ビル最上階はダンスホール。そこで踊っていた娘さんはダンスの巧みで玉の輿、に魅せられ母もダンスは祖父が待った!

古着卸を廃業したNさんは、往時は当たり前だった借地住まいを、泡期に地上げに見舞われ、底地買いの洗礼を浴び、昨年(1998年)、昔の地主とは似て非なる底地権者に、七十七年間住んでいた我が家を追われました。眼の検査帰りの母を認め、自転車を下りて待っていたNさんと立ち話の母は、父の体が気になって、すぐに別れてしまった翌日、N商店は取り壊され、Nさんの姿も消えました。訴えたかったのです昔の母にNさんは、この社会のどうしようもない不条理を。

信託銀行右隣り、微かに写っている古着商の、娘さんが後妻に納まったのが本郷のF先生です。もしF先生を紹介されなかったら、両親の一家は、一人生き残れたらよい方でした。

【物干し】神田の店は、南北は隣家に、東西は路地と幹線道路に面していましたので、朝陽と西陽に不自由はなかったのですが、昼日中の太陽とは縁がなく、洗濯物は屋根の物干しを利用、物干し端の会議が成り立つほどでした。しかし何も屋根へ上がるまでもなく、二階は隣同士、筒抜けでしたので、各戸の事情や行事も口コミで知れ渡り、十三のお祝いは、店から神田明神まで着物見物の列ができたそうです。

母の結婚前の友人知人は「長唄の世界」「小学校までの隣近所」「女学校」に分かれています。長唄では番衆町のお師匠さん宅に遊びに来ていた母より二歳上の娘さん。先妻のお子ですが、後妻に大切に育てられ、お稽古を終えた母と遊んでいました。母が女学校を卒業した数ヶ月後に肺結核で死亡。晩年は蝋のように白かったそうです。母も女学校時代に結核性疾患で長期療養。一年留年しています。

お師匠さんは大阪時代、生い立ちに事情があって苦労されたのですが、戦死された息子さんも大阪から引き取ったお子で、母のお稽古仲間でした。

豊かになりますと、大揉めに揉めても二号さんを囲ったり、二号さんが後妻に納まったり、二号さんのお子を引き取る例が珍しくなかった時代です。その背景には、妻や子が容易に病死してしまう医療事情もありました。戦争直後、母の容体が急変して明日をも知れないとされた時、まだ死ぬと決まった訳でもないのに、祖母(母の実母)は父に「二人の子を育てるのは大変でしょう、妹(母の実妹)を後妻に」と話したほどです。長男と長女を亡くした祖母には「重い病気=死」という観念が染み込んでいたのです。

祖父も父も自助の人です。二人は四六時中、事業の先行きに不安を抱き、家族を案じ、他者を頼らず、基盤を侵さず黙々と働き続けていました。同時に祖父は、自ら稼ぎ出した財貨を、厚化粧の自己顕示に費やすのではなく、芸と履き違えた狂騒に投資するのでもなく、伝統美様式の後援者として、娘を介した継承者として、費消し「生産」し続けていたのです。母が祖父を敬愛する所以です。

現在の母の仕事に褒状はありません。しかし母は学業や長唄同様、些かも手抜きせず、職人の自負をもって精緻な型紙作りに励んでいます。その腕は昔の成績と遜色がありません。型紙はやがて母の足跡を完全に拭い去って、量産の衣服に転じますが、母はそれを当然のこととして、仕事に没頭できる機会だけで満ち足りています。

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