浅草の絶好の遊び場/明治時代中頃
父は浅草田原町の足袋問屋河合屋へ年期奉公、十三年余り勤め、のれんと金一封をもらい二十七歳で独立、田原町五番地、東本願寺の裏通りに小さな足袋屋を開店。
私の遊び場は浅草の観音様の近く。境内は銀杏の老樹が聳え浅草の奥山と呼ばれ、仁王門の傍、鐘楼堂のあたりに弁天山という小高い丘があり、ここにはさらに昔、池と、弁財天の祠があったとされ、絶好の遊び場で、子供や子守りが大勢集まっていた。
我が家は浅草清島町の報恩寺前、次いで浅草小島町へ引越し、下谷竹町(佐竹仲通り)の中程に、家賃二円、間口九尺の店を借り足袋を売った。さらに浅草栄久町の龍宝寺、俗称「鯉寺」の門前で、家賃二円、鉄葺き四軒長屋の一つ、八畳と二畳の借家へ転居。鯉寺近く、川幅四~五間の新堀(その後、暗渠)では、夏の大雨時、相当獲物があったので、増水した川に四つ手網を掛けた。私が通った小学校は誓願寺学校、岡田学校、育英学校、川勝学校・・・
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