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2005-01-22

貧乏/明治時代の浅草

私の父は人にすすめられ花見酒を売った。荷車に菰冠りを三つ並べ、内二つは空樽で、水で割った酒を売っても、売り方次第で酔客相手によく売れたが、父の売り方は芳しくなく、家運挽回に苦慮するも資金が尽き食い詰めた。

両親は、質入れの話や質物の持ち出しなど、生活苦を私の目から隠そうとしたが、昨日着ていた父親の半天が、今朝は白い飯に変わっていたのを私は知っていた。家賃二円の、家の食い潰しは私一人だけで、父は好きな酒も滅多に飲まず、一ヶ月の生活費は高々十七、八円だったが、それさえも我が家には稼げなかったが、

南京米の等分に混ざったお米を、二十五銭ほど買って帰る途中、新堀の橋の際に出ていた煮込み屋で、豚の臓物の、串刺しを味噌で煮た一銭四本の「牛煮込み」を買い、片手にお米の風呂敷、片手に煮込みを下げて帰る楽しさ。

真冬の夜など、両親がランプの下で懸命に仕事中、命じられ、買ってきた焼き芋の風呂敷を広げ、湯気の立つのを親子で囲んで食べる美味さ。

貧しくとも、生きていれば楽しみがあった。

隣人の鞄屋が、儲けて浅草老松町へ店を開いたが、その鞄屋を、両親はとてもよい商売と考え、十三歳の春、私を奉公に遣ることに決め、赤飯と尾頭つきで祝ってくれた。

膳に向かった私は、胸が一杯で祝いが喉を通らなかった。しかし奉公ともなると親の膝下とは辛さが違い、半年あまりで鞄屋から逃げ帰ったのが「はじまり」で、----、親も呆れ果て、奉公に出すのを諦め、手伝わせることに決めた親の言葉は、足袋屋でも、俺のように貧乏人ばかりでなく長者議員になった人も。

親子三人で働いたが、残るものは何もなかった。

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※ 自伝の筆者は、明治17年、浅草の貧しい足袋屋に生まれ、大正3年、神田で仕立物の製造卸を創業。安政の江戸大地震の伝聞から、綿布売買の禁止により昭和15年廃業するまで。

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