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2005-01-20

商人の自伝に記された大正関東地震

自伝抄録・祖父の肖像」より、関東大震災の記述(抜粋)。

『………私の付近では潰れた家は殆どなかったが、屋根瓦が崩れ落ち、電車通りを土煙りが朦々と立ち込めた。遠くに火の手。妻は先に母親と子達を連れ丸の内方面へ逃げた。私は店の前でトラックを呼び止め、商品や家財の搬出を交渉、手当たり次第に積み込んで、秋葉原の広場へ運び込ませ、それを二度繰り返した所で火の手が迫り、運転手は20円払ってくれないと積まぬと言い出し、お金は残らず妻が持って行ったので、店員の手持ちを借りて積ませたが、午後5時頃、急に風が強まり、店にも煙が覆ってきて、諦めるよりほかはなかった。私は残っていた店員4、5人を連れ上野公園へ逃げた。途中、パンを買いたかったがどこの店にも食べ物はなく、公園は避難の人で立錐の余地もなかった。腹が空いてどうにもならなかったので、店員の金を借り集め、谷中方面へ米を買いに出かけ、売れ残りの南京米を買い、拾った洗面器で米を煮ようと、博物館の噴水を汲みに行ったところ、………』

『………当時の私の商品は店の他に、尾張屋倉庫、東神倉庫、自家工場、および二十余軒の請負職方等に散在していたが、そのどれもが焼失、僅か一、二の職方の元にあった加工依頼品だけが焼け残った。当時の私の不動産は、店と、隣家を買収して拡張準備中の工場と、貸しつけてあった店舗四戸と土蔵一棟の、どれ一つとして焼け残ったものはなかった。店は一切現金売りで売掛けはなし。私の好意の時貸し千七百円は回収不能。仕入先に預けてあった材料二万五、六千円分は、ある者は焼失したので弁済の義務なしと抗弁、ある者は半額を弁済、ある者は年賦で全額償ってくれた。当時の私の資産は、三菱銀行に預金四万円、近江銀行、明治銀行等の預金が合せて一万円、有価証券二万三千円。火災保険は弁償の義務なしと契約にあったが、政府の補助融資があって、保険額の二十分の一が見舞金として支払われ、私の手元にも見舞金一万円近くが入った。支払い制限令により、銀行預金の引き出しは一日百円まで。明治銀行は渋谷に立ち退いたので、草加から渋谷まで毎日徒歩で引き出しに行った。当時の私の債務は仕入れ未払金二万九千円。罹災直後は、多くは無条件で半額は負けてくれたが、それを等閑視(いい加減視)する失策を犯し、私は債務全額を年賦または月賦で支払ってしまった。余焔の鎮まるのを待って私は店の焼け跡に立った。どちらを向いても果ても知らない焼け野原であった。再び旧のように家が立ち並ぶのは幾年後であろうか。営々と築き上げた努力の結晶も一夕にして煙と化した。………』

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